あらためて振り返ってみると、それはU-23日本代表を率いる手倉森誠監督から課された「追試」だったのかもしれない。U-23…

あらためて振り返ってみると、それはU-23日本代表を率いる手倉森誠監督から課された「追試」だったのかもしれない。

U-23南アフリカ代表を松本平広域運動公園総合球技場に迎えた6月29日の国際親善試合。日本が2点をリードして迎えたハーフタイムに、DF室屋成(FC東京)は指揮官からこんな言葉をかけられている。

「左、できるか?」

左とは左サイドバックのこと。本職の右サイドバックとして、リオデジャネイロ五輪切符を獲得した1月のU-23アジア選手権以来の出場を果たしていた室屋は、笑顔で即答している。

「はい、できます!」
迎えた後半22分。左サイドバックの亀川諒史(アビスパ福岡)に代わって松原健(アルビレックス新潟)が投入され、亀川とは反対の右サイドバックに入った。

ピッチを横断して左サイドバックの位置へと走りながら、室屋は記憶の糸を必死にたどっていた。しかし、脳内をいくら検索しても、左サイドバックとしてプレーした試合が弾きだされない。

「いつ以来ですかね?1年ぶりかな…いや、覚えていないですね。去年も全然やっていないし、ホンマにめちゃ久しぶりだったので、もうやるしかないと」

なかば開き直って、とにかく無我夢中で不慣れなポジションでプレーした残り時間。4-1の快勝を告げる主審のホイッスルは、室屋にふたつのプラスアルファをもたらした。

■大ケガからの復帰

ひとつは左右のサイドバックでプレーできるユーティリティーぶりを示したこと。もうひとつは左足に負った全治3カ月の大ケガから復帰して4戦目で、初めて90分間フル出場を果たしたことだ。

「左サイドバックではほとんど何もしていないので…ユーティリティーぶりを見せられたかどうかはわからないですけど、何とかこなせたかなと」

苦笑いを浮かべながら後半22分以降のプレーを振り返った室屋だが、最後までピッチに立ち続けたことには満足感に近い思いを抱いていた。

「最後はちょっとキツかったんですけど、何とかやりきれました。90分間プレーできたことが、それも代表の舞台だったことが、個人としては自信になります。(フル出場することは)全然聞いていなかったし、最後までわかりませんでした。ペース配分も何もありませんでしたけど、とりあえずはよかったですね」
■『いつでも本気を出していますよ』

U-23アジア選手権では、U-23サウジアラビア代表とのグループリーグ第3戦を除いた5試合で先発フル出場。延長戦を含めた計480分間を戦い抜き、攻守両面で日本の右サイドを活性化させた。

まばゆい輝きを放ったのは、負けた時点でリオデジャネイロ行きの夢が断たれる正念場。ともに無得点のまま延長戦へもつれ込んだ、U-23イラン代表との準々決勝の前半6分だった。

右サイドを攻め上がってボールを受けた室屋は、フェイントで切り返してから利き足ではない左足で正確無比なクロスを一閃。FW豊川雄太(ファジアーノ岡山)の先制ゴールを導き、チームを勢いづけた。

大会が開催されていたカタールとの時差は6時間。日本はちょうど深夜の時間帯だったが、直後からLINEのタイムラインに祝福のメッセージが続々と送られてきたと室屋は振り返っている。

「いやぁ、めちゃ届きました。『左足のクロスなんて見たことがない』とか『いままで手を抜いていただろう』とか。もちろん『いつでも本気を出していますよ』と返信しましたけど」

送り主は明治大学体育会サッカー部のチームメートやスタッフ。今年1月の時点で室屋はチームで唯一の大学生だったが、カタールの地で群を抜く存在感を示したことで取り巻く環境が激変する。

【FC東京・室屋成が挑むリオ五輪と先駆者・長友佑都の背中 続く】

4年生への進級を前に、3つのJクラブから獲得のオファーが届いた。しかしながら、青森山田高校からスポーツ推薦で入学した室屋は、原則として卒業までサッカー部に所属しなければならない。

しかし、1年生からしっかりと単位を取得してきた室屋の真摯な姿勢と、プロの舞台でプレーすることで、リオデジャネイロ五輪でさらに飛躍する可能性を秘めていることが明治大学側の考え方をも変える。

政治経済学部に籍を置いたままFC東京とプロ契約。大学生とJリーガーの二足のわらじに挑むことが発表されたのは2月5日。胸に抱いていた夢と希望は、わずか6日後に絶望感へと変わる。
興奮と緊張を交錯させながら臨んだ宮崎キャンプでの初日。トレーニング中に左足を痛めた室屋は、緊急帰京を余儀なくされる。都内で精密検査を受けると、耳慣れない症状を告げられた。

「左足ジョーンズ骨折」

小指のつけ根部分の疲労骨折のことで、骨がくっつくのが遅れる、あるいは治癒が止まって患部が動きやすいことで難治性が高い。早期復帰には手術が必要となり、腫れが引くのを待って19日にメスを入れた。

【THE REAL】大学生Jリーガー・室屋成の成長を加速させる4つの夢…左足骨折の悪夢を乗り越えて

この時点で全治は3カ月。当面は患部を動かせないから、リハビリもままならない。復帰したとしてもゲーム勘やゲーム体力といった点で不安が残る。リオデジャネイロは厳しいのでは、という声もあった。

胸中に不安がなかったといえば、もちろんウソになる。ようやくランニングを再開できたのは5月中旬。焦りは禁物のデリケートなケガだけに我慢を重ね、医師の「絶対に間に合う」という言葉を支えにした。

J3に参戦しているFC東京U-23でベンチ入りを果たし、藤枝MYFC戦の後半25分からピッチに立ったのは6月12日。室屋は自身のツイッターで感謝の思いをつづっている。

6日後のセレッソ大阪U-23戦では初先発を果たして61分間、6月26日のグルージャ盛岡戦では同じく先発して67分間プレー。ピッチに立つ時間を徐々に伸ばしたなかで、南アフリカとの国際親善試合を迎えた。

リオデジャネイロ五輪に臨む最終メンバーが発表される前で最後となる一戦。約5カ月ぶりに代表復帰を果たし、先発にも名前を連ねた室屋は、前半終了間際に復活を高らかに告げるアシストを決めている。

左サイドでスローインのボールを受けたMF野津田岳人(アルビレックス新潟)と、FW中島翔哉(FC東京)が細かいパスを交換しているとき、室屋はまだ自陣のなかほどにいた。

そして、リターンを受けた中島が体を反転させ、右サイドにいたMF矢島慎也(ファジアーノ岡山)へ、約40メートルものサイドチェンジのパスを通した瞬間だった。

チャンスのにおいをかぎ取った室屋がグングン加速し、ボールをキープする矢島の外側を追い抜いていく。スピードに乗った状態で矢島からパスを受けると、冷静沈着にゴール前の状況を見極める。

中央へ走り込んでいたFW浅野拓磨(サンフレッチェ広島)には、マークがついていた。ニアサイドにもふたり相手選手がいる。一方で走り込んできた野津田に、ひとりが引きつけられている。

室屋から見てゴールから反対側に生じた大きなスペースへ、右手で小さく手招きしながら矢島が走り込んできた。あうんの呼吸で放たれたマイナスのクロスの軌跡が、矢島の右足と鮮やかに一致する。

相手GKがほとんど反応できない強烈な一撃が、バーに当たってゴールに吸い込まれる。勢いあまってゴールラインを割っていた室屋はそのとき、右手でガッツポーズを作っていた。

【FC東京・室屋成が挑むリオ五輪と先駆者・長友佑都の背中 続く】

「周りにうまい選手が多いので、自分に合わせてくれる。あらためてこのチームはやりやすいと感じましたけど、全体的に見れば個人としてそんなにいいプレーというのはなかったので。アシストでチャラになったくらいかな、と思っています。相手へ寄せ切る部分もそうですし、守備の面でももっとボールを取り切れる部分もありました。攻撃でも細かい部分で少しミスがあったので、そういうところは修正していかないと」

試合は亀川の不用意なハンドで与えたPKを、前半30分に決められて先制を許していた。それでもピッチ上の全員が慌てず、7分後には同じくけがから復帰した中島が同点ゴールを決めていた。室屋が続ける。

「足が速い選手が多く、しんどい試合になるかなと思ったんですけど。同点になってから相手のペースが少しずつ落ちてきて、その後に逆転できて試合の流れを変えられたことが大きかった。ちょっとハプニング的な失点でしたけど、悪い流れのなかでもみんなが落ち着きを失わず、チーム全体で状況を上手く打開できたことは、今後のことを考えてもよかったのかなと」

復帰を目指し、ともにリハビリを積んできた中島が引き寄せた流れに乗ったなかで決めたアシスト。おそらくはこのプレーで、手倉森監督も右サイドバックとしての室屋に計算を立てたのだろう。

そのうえで、左サイドバックでの適性も試す。ひとりの選手が複数のポジションを務められる、いわゆるユーティリティー性があれば、それだけ他のポジションを厚くすることができるからだ。
果たして、7月1日午後2時から、東京・文京区のJFAハウス内で行われた最終メンバー発表会見。ひな壇の手倉森監督がゴールキーパーから、順にリオデジャネイロに臨む18人の名前を読み上げていく。

迎えた6人目。ディフェンダー陣では藤春廣輝(ガンバ大阪)と塩谷司(サンフレッチェ広島)のオーバーエイジコンビ、そして亀川に続いて室屋がアナウンスされた。

亀川と室屋が左右のサイドバックを務められ、さらにセンターバックの塩谷、キャプテンのMF遠藤航(浦和レッズ)も右サイドバックの経験があることから、ディフェンダー陣は6人という小人数となっている。

「復帰して4試合目で、まだまだゲーム体力という部分が戻り切っていないのは確かなので。そこはもっと戻していかないといけないけど、(左足は)痛み自体もまったくないので、そこは問題ありません」

■リオデジャネイロはあまり意識していなかった

日本が44年ぶりにベスト4へ進出した4年前のロンドン五輪の時は、青森山田高校の3年生だった。清水エスパルスからオファーが届いたが、サイドバックに転向して2年目という状況を考えて断りを入れた。

急がば回れ、という思いを込めて選んだのは明治大学。長友佑都(インテル・ミラノ)を筆頭に、サイドバック育成に定評のある名門で心技体を鍛えることが、長い目で見ればサッカー人生においてプラスになると信じた。

「大学を選んだ時点で正直、リオデジャネイロのことはあまり意識していなかったんですよ」

4年前の心境をこんな言葉とともに振り返ったことがある室屋だが、サッカー部を退部するまでの3年間で積み重ねてきた努力が急成長を促し、手倉森監督をも魅了する存在となった。

体育会サッカー部を3年次で退部し、明治大学に籍を残したままFC東京でプロとなり、ルーキーイヤーに開催されるオリンピックの舞台に立つ。室屋が描く軌跡は、8年前の北京大会に出場した長友をダブらせる。

南アフリカ戦から一夜明けた6月30日。室屋のツイッターには、古巣を訪ねてきた長友と写ったツーショット写真とともに、こんな言葉がつぶやかれている。

「明治の大先輩であり、僕のアイドル。いつか同じピッチでプレーできるよう頑張ります」

北京オリンピックを戦った長友は、岡田武史監督に率いられる日本代表でも不動の左サイドバックとして活躍。ワールドカップ南アフリカ大会でのプレーが認められ、イタリアへと旅立っていった。

室屋自身、将来はヨーロッパでのプレーを夢見ている。悪夢のケガと過酷なリハビリを乗り越え、たくましさを増した心技体をたずさえて、リオのヒノキ舞台をかわきりに再び自分自身の可能性と長友の背中を追いかけていく。

室屋成 参考画像(2016年6月29日)(c)  Getty Images

室屋成 参考画像(2016年6月29日)(c) Getty Images

室屋成 参考画像(2016年1月6日)(c)  Getty Images

室屋成 参考画像(2016年1月6日)(c) Getty Images

室屋成 参考画像(2014年12月14日)(c)  Getty Images

室屋成 参考画像(2014年12月14日)(c) Getty Images

室屋成 参考画像(2014年9月28日)(c)  Getty Images

室屋成 参考画像(2014年9月28日)(c) Getty Images