倒れたまま動けなかった正捕手・有馬「吉田投手が観客を引き寄せる投球をした」 今でも脳裏から離れないあのシーン。金足農ナインの歓喜の輪ができた横で、倒れたまましばらく動けなかった正捕手・有馬諒の姿はむしろ残酷にも見えた。 2-1で迎えた9回裏…

倒れたまま動けなかった正捕手・有馬「吉田投手が観客を引き寄せる投球をした」

 今でも脳裏から離れないあのシーン。金足農ナインの歓喜の輪ができた横で、倒れたまましばらく動けなかった正捕手・有馬諒の姿はむしろ残酷にも見えた。

 2-1で迎えた9回裏。球場の九割ほどは金足農に対する大声援に包まれていた。近年、甲子園でよく起こっている劣勢のチームを後押しする、いわゆる“判官贔屓”のムードである。だが、そんな空気の要因を有馬はこう見ていた。

「9回にああいう展開になってしまったのは、自分たちが8、9回のチャンスを作っておきながら、そのチャンスを生かせなかったからだと思います。吉田投手のピッチングが、観客を引き寄せるようなピッチングでしたし。それがもう、勝敗を決める“流れ”になったんだと思います」

 有馬は2年生ながら冷静な判断と的確なリードで注目を集め、1年生だった昨秋から正捕手を務める。取材対応で見せる、ハキハキとした……というよりも、丁寧な言葉選びと大人びた受け答えが報道陣の中で以前から評判を呼んでいた。

 金足農との試合を迎えるにあたり、有馬は、ランナーを出してしまっても、大事なのはその時のピッチング、相手がチャンスを作った時にどう抑えるかが大きなポイントだと見て、リードしていた。

 先発した佐合大輔(3年)は走者を背負う場面こそ多かったが、無失点のまま4回を投げ切った。5回からは技巧派左腕の背番号18、林優樹(2年)がマウンドへ。林は3回戦で強打の常葉大菊川打線を5回まで無安打10奪三振を見せるなど完璧なピッチングを見せていた。この日もブルペンから調子が良かったが、立ち上がりに三振を奪ってから三塁打を打たれて1点を失った。その直後に、4番の北村恵吾(3年)の適時打で勝ち越したが、球場の雰囲気が回を追うごとに変化していくのを肌で感じていた。

9回にマウンドにいた左腕・林が最も悔やんだのは…

 林が最も悔やんだのが、9回表の攻撃だった。1死一、二塁のチャンスで打席に立ちバントを試みたが、吉田の得意のフィールディングにより三塁で封殺され、犠打は失敗に終わった。「あのプレーは大きかった。あれでさらに金足農さんに流れがいったと思います」と唇をかむ。

 9回裏のマウンドに向かった林。ただ、この独特の空気。3人で攻撃が終わることはないと思っていた。それでも、目の前の打者に集中しようとした。「まずは先頭打者を抑えないと」。だが、4球目、高めに浮いたチェンジアップを先頭打者の6番・高橋に左前へと運ばれる。球場の雰囲気がヒートアップした。

「8回にピンチを三振で断たれたことで、“吉田投手を応援しよう”みたいな空気になっていたので…。それにしてもすごい声援でした」。7番・菊地彪吾(3年)にも左前安打を許し、続く菊地亮太(3年)にはストレートの四球。無死満塁になった。

「ボールカウントが先行するだけですごい拍手と声援があって。目に見えない圧力を感じました」。バックネットを背にしている有馬でさえこれだけのプレッシャーがかかっていたのだから、視界にバックネット裏の観客が広がる林には相当な重圧がかかっていた。いつも聞こえる有馬の声が聞こえず、タイムも使い切っていた、まず、どう投げればいいのか分からない。いつもは淡々と投げる林の顔がこわばっているのが分かった。

「今思うと、少しでも自分でうまく間を取って投げれば良かった。でも、あの時は完全に球場の雰囲気に飲まれてしまっていました」と林。リードする有馬も同じ気持ちだった。当時の心境をこう振り返る。「実は金足農がスクイズを多用することを知らなかったんです。最近はだいたいのチームは打たせてくることが多い。でも、あの場面はさすがにあるかな……と、警戒するところはありました。それよりも、自分たちの心理からすると、ああいう状況だったので早く抑えたいという気持ちが強かったですね」。

 間合いを取りたいとは、有馬も思っていた。だが、この状況を早く脱したいという思いの方が勝っていた。「いわゆる“投げ急ぎ”でした」と有馬が言うように、林を何とか楽にしたいと思った矢先に、あの2ランスクイズが生まれたのだった。

新キャプテンに命じられた有馬「甲子園は帰らないといけない場所」

 試合後、不思議に思ったことがある。球史に残る、劇的な負け方をした近江ナイン。本来は泣きたいほど悔しいはずなのに、ナインの表情に悲壮感をまったく感じなかったのだ。ベンチ前で甲子園の土を拾うナインの姿がテレビに映ったが、まるで好勝負を楽しんだかのようなすっきりした笑顔すら見えた。

 因みに近江は今春のセンバツの3回戦で星稜にサヨナラ負けを喫してベスト8入りを逃している。「ベスト8入りするというひとつの目標が達成できた、というのもあります」と武田弘和部長は言うが、それ以上の感情が彼らを支配していた。

「負けたことは悔しいですけれど、8回と9回の自分たちのチャンスを抑えられた時も、9回に2ランスクイズを決められた時も……向こうはこういう場面を想定した練習をずっとやってきたんやなって思いました。そんなチームとこんな試合ができましたし、吉田投手のマウンドでの姿勢を見ていたら……自分も見習うところがありました。自分ももっと真っすぐのキレとスピードを上げていきたいです」と林は誓う。

 激戦から一夜明けて宿舎を発つ朝、多賀章仁監督から新チームのキャプテンを命じられたという有馬の目は、もう来夏に向けられていた。

「これからもっとしんどいこともあると思います。注目されることで、厳しい試合も増えると思いますし……。でも、自分がもっと林をうまくリードして、来年も甲子園には必ず帰ってきたいです。というより、甲子園は帰らないといけない場所だと思っています」

 2年生バッテリーにとって、あの空気の中にいたことは酷だったのかもしれない。でも2人の受け止め方はむしろポジティブで、“甲子園はこんなこともある”とさえ言っているようにも感じた。「自分たちは、まだ来年があります」。そう言って元気にグラウンドに駆け戻っていく有馬の後ろ姿に、来年の楽しみがまたひとつ増えたような気がした。(沢井史 / Fumi Sawai)