あまりに一瞬のことで、誰もが目を疑った。 アジア大会レスリング女子62キロ級・準決勝の第2ピリオド開始早々、川井梨紗子(ジャパンビバレッジ)はモンゴルのオーコン・プレブドルジにタックルを入られると、そのまま一気に後ろに倒されて、あっと…
あまりに一瞬のことで、誰もが目を疑った。
アジア大会レスリング女子62キロ級・準決勝の第2ピリオド開始早々、川井梨紗子(ジャパンビバレッジ)はモンゴルのオーコン・プレブドルジにタックルを入られると、そのまま一気に後ろに倒されて、あっという間にフォールの体勢に持ち込まれた。オーコンの押さえつける力強さに川井はほとんど抵抗できず、試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
それは、ものの15秒の出来事だった。
準決勝でフォール負けを喫し、マットから起き上がれない川井梨紗子
川井はリオ五輪で金メダルを獲得してから今まで、国内外の公式戦では一度も負けたことがなかった。しかし、3年ぶりとなる敗北が、自分でも状況が飲み込めないほどに一瞬で、なおかつフォール負けとは想像すらしていなかっただろう。本当に、「一瞬の隙」を突かれた形だった。
試合終了後、マットに背をつけたまま川井は、しばらく呆然と天井を仰いだ。その後、審判から何度も手を差し伸べられて立つように促(うなが)されたが、なかなか立ち上がることができなかった。あまりに呆気ない幕切れに、しばらくは涙すら出てこなかった。
オリンピックチャンピオンとして臨んだ、今回のアジア大会。「優勝」は絶対的なノルマだと考えていたに違いない。
過去のアジア大会では、吉田沙保里(至学館大職)や伊調馨(ALSOK)を筆頭に、日本の女子レスリングは他国から嫌がられるほど、毎回金メダルを量産してきた。今大会は自分がエースとなって、金メダルラッシュを牽引するつもりだったはずだ。
しかしこの日、女子4階級中、金メダルはゼロ。川井自身は3位決定戦で意地を見せ、テクニカルフォール勝ちでなんとか銅メダルは死守したものの、自分の不甲斐なさからか、勝利した直後、目には涙が溜まっていた。
試合後、この日の日本勢が金メダルを獲得できなかったことを記者から問われると、それまで気丈に振る舞っていた川井は思わず、声を詰まらせた。
「私が期待されていることもわかっていたし、私が勝たなきゃいけないって思いももちろんありました……。なので、準決勝で負けた後、いろいろ考えました。私は、トーナメントで負けてからもう一回試合をする経験が今までなかったので、すごい気持ちの作り方が難しかったです。……まだ、沙保里さんみたいな器の大きい人にはなれていないなって思いました」
ここ数ヵ月で川井を取り巻く環境が大きく変わっていたことは、先の報道などから想像できるだろう。今まで師として慕っていた栄和人監督が現場を去り、監督不在のなか練習に励んできた。そのため今回の準決勝敗退は、その理由を栄監督の不在と紐づけて考えられてしまうのも無理はない。
現に、至学館大で練習している55キロ級の奥野春菜も、世界選手権王者でありながら、こちらも準決勝で敗れて決勝進出を逃している。監督不在の影響がまったくないとは言い切れないだろう。だからこそ、金メダルを獲って周りを黙らせたいという思いが人一倍強かったはずだ。川井はその件について、自分の思いをハッキリ口にした。
「私は自分で考えながら、しっかり練習をやってきています。もちろん、今までは監督に教えてもらいながらやってきたのは確かですけども、私ももう社会人だし、自分でレスリングのことは考えられるので。周りには『監督がいなくなったから』とか思われるとは思いますが、私は関係ないと思っています。実力です」
その表情からは、無念さがにじんでいた。
準決勝で川井に勝利し、今回優勝したモンゴルのオーコンは、昨年の世界選手権の63キロ級の王者であり、2016年1月のヤリギン国際大会でも伊調馨を下している強豪選手だ。63キロ級は昨年の世界選手権で川井が優勝した階級(60キロ級)よりもひとつ上の階級であり、川井は今回、階級をひとつ上げて大会に臨んだ。それもあってか、マットに立った印象はオーコンのほうがひと回り身体が大きく感じられた。
とはいえ、川井自身は「体重うんぬんは関係ない。どちらの階級でもやれると思っている」と語るように、今回はモンゴルの選手のほうが「勝利への執念が強かった」と言う。オーコンにとっては、自分の得意としている階級であり、世界王者としての意地があったに違いない。一瞬の隙を気迫あるプレーで突かれ、川井は土をつけられた。
しかし、川井のメンタルも決して弱いわけではない。準決勝で敗退したあと、悔しさであふれる気持ちを抑え、次の3位決定戦に向けてのウォーミングアップの際、負けた相手のオーコンに打ち込みの相手を頼んだという。
「自分からお願いしにいきました。モンゴルの選手も優しい方なので、相手をしていただけました。打ち込みのつもりでやっているはずが、段々お互いバチバチで、スパーリングみたいになっていて。
そういう負けず嫌いなところとか、最後は絶対、自分が上になって終わるっていう貪欲さとか、打ち込みのわずかな時間でも相手の強さを感じられました。自分も負けず嫌いな気持ちは強いほうだと思っていたし、試合ではレスリングをできているほうかなと思っていたんですけど……ダメでしたね」
今大会、女子はどの階級もモンゴル、北朝鮮、インドなどの選手が成長著しく、決勝に名を連ねることが多かった。女子レスリングは日本のお家芸であったはずだが、今回に限っていえば、影を潜めてしまった印象だ。
東京五輪まであと2年。アジアではぶっちぎりの実力があり、追われる側だった日本と、他の国との差は思っている以上になくなってきている。川井は言う。
「2年後に向けてというよりも、私は1年1年、大事にしているつもりです。今年も来年も世界選手権があるし、全日本選手権もある。もちろん、最終的にはオリンピックを目指してやっていますけど、私は常に目の前のことを一生懸命やっているつもりです。
オリンピックうんぬんではなくて、今、目の前にいる相手に勝ちたい。自分より強い人、上の人に勝ちたいと思ってずっとやってきています。……今回はまたひとつ、世界のレスリングを知れたのかなと思います。反省も多く見つかったので、また練習するしかないですね」
師の解任はセンセーショナルな話題であっただけに、これから先、しばらくは嫌でも実力と関連づけた話題が川井に付きまとうことになるだろう。それを打破できる唯一の手段は「勝つこと」だ。この敗戦をどう糧(かて)に変えて強くなっていくのか。一度オリンピックでトップに立ちながら、今回のアジア大会で苦杯をなめた彼女の、さらなる成長が楽しみである。