名コーチ・伊勢孝夫の「ベンチ越しの野球学」連載●第25回 プロ野球のサインとは、どんなものが、どれだけあるのだろうか…
名コーチ・伊勢孝夫の「ベンチ越しの野球学」連載●第25回
プロ野球のサインとは、どんなものが、どれだけあるのだろうか? 捕手が投手に送るサイン、バント、盗塁、けん制……いくつも挙げることができるが、では実際にどれぐらいの種類があって、どのようなタイミングで出されているのか。選手、フロント、コーチとして50年以上もプロ野球界に身を置いてきた伊勢孝夫氏に「プロ野球のサイン事情」について解説してもらった。

ヤクルト時代の野村克也監督(写真左)と松井優典ヘッドコーチ
プロ野球のサイン――今回のテーマとして聞かれるまで、実際どれだけの数があるのか考えたこともなかった。大別すれば、走塁やバントなどを含めた攻撃のサインと、バッテリーやシフトなどの守備のサインに分けられる。
私の専門だった攻撃のサインだけでも、バント、ヒットエンドラン、盗塁など、さまざまだ。
バントといっても送りバント、セーフティバント、スクイズなどがあり、スクイズひとつとっても、普通のスクイズ、セーフティスクイズ、偽装スクイズというのもある。偽装スクイズとは、ランナー一、三塁のときにスクイズを仕掛けるフリをして、わざと空振りをさせて一塁走者を二塁に進塁させるプレーである。
エンドランも、普通の構えから打ちにいくのもあれば、バントの構えからヒッティングに出るバスターもある。また、最低限走者を先の塁に進める”進塁打”のサインもある。
盗塁は多少複雑だ。まず、”グリーンライト”といって、「走りたいときに走ってもいい」というサインがある。主に足の速い選手に出されるもので、自分のタイミングで自由に盗塁できるというものだ。
これとは別に、ベンチから「次の投球で走れ」と出されるサインを “ディス・ボール”という。しかし、このサインは最近あまり見かけなくなったように感じる。近年はビデオ撮影などで相手バッテリーも走者の動きを細かく把握し、点差やカウントなど状況によって走らせたい場面が伝わりやすくなり、サインを出しにくくなったためだろう。
このほか、ランナーや一塁ベースコーチから「走らせてくれ」「走らせたい」というサインをベンチに送ることもある。出し方は案外簡単で、帽子を脱いだり、ベルトの端を触ったり、いわゆるフラッシュサインという類のものだ。
ヤクルト時代の野村(克也)監督は、こうしたベースコーチからの希望も聞いてサインをつくっていた。ただ、サインが送られてきたからといって必ずしも応じるわけではない。「あかん。行くな」と野村監督が言えば、松井(優典)ヘッドコーチが急いでベースコーチャーに「走るな」のサインを出す。
ちなみに、このときはフラッシュサインではなく、ブロックサインで伝えていた。ベンチの動き、特に監督のそばにいるヘッドコーチは、常に相手から見られており、フラッシュサインだと読まれる可能性があるためだ。
野村監督といえば、1球ごとに作戦を考える性格で、グリーンライトも足の速い飯田哲也ぐらいで、ほとんどがディス・ボールだった。カウントにより投手の配球も心理も変わる。それを織り込めば、1球ごとにサインが変わるのは当然といえる。
ただ、ご存知のように野村監督はしょっちゅうベンチでぼやいている。「次、ボールやったらエンドランかけても面白いかな」「そろそろ(投手を)代えんといかんな」というのは日常茶飯事。そんなぼやきのせいで、こんなことがあった。
ある試合でいきなり走者が走り、あえなくアウトに。怒り顔で野村監督が松井ヘッドに「勝手にサインを出したんか?」と問い詰めると、「監督が『ボールになったらランナーを走らそうか』と言ったから……」と返した。すると「それも面白いかなって、独り言を言っただけや!」と。こんなやり取りは、一度や二度ではない。逆に、独り言と思ってサインを出さずにいると、「なんで出さないんだ!」と激怒したこともあった。
こうしたことは、ほかのチームでも多かれ少なかれあるのではないだろうか。だから監督は言葉ではなく、サインを出す役目のコーチに指で指示することがある。たとえば、指3本なら盗塁とか、指2本ならバントとか。
これは余談だが、テレビなどで監督が帽子やベルトなどを触ってサインを出しているような仕草をしていることがあるが、あれはほとんどがダミーだ。本当のサインは、コーチや選手が出す。試合にそれほど出場していない若手選手を使うケースもある。
ただ、近鉄時代の梨田昌孝監督は、すべて自分で出していた。人に任せたがらず、パパッと自分で出していたから、コーチとして楽だった。
ベンチからのサインだが、イニングによって変わることが多い。前述したように、ベンチは相手から常に見られており、同じサインを1試合使うにはリスクがある。ただ、変えるのはキーだけで、たとえば肩を触ったあとが本当のサインだとすれば、奇数イニングはそのキーとなる肩を帽子に変えたりする。
こうしたサインは、ベテラン、新人に関係なく、全員が覚えなくてはならない。とくにルーキーは、キャンプ中盤の実戦形式の練習が始まる頃、ホテルに戻って夜間ミーティングなどで徹底的に教え込まれる。
教官は三塁ベースコーチだ。いろんなパターンで出し、選手になんのサインかを言わせる。ただ三塁ベースコーチも、長年やっているベテランならいいが、今年からというコーチもいる。とくに若手のコーチで初めて三塁コーチを任される者は、それこそキャンプ中はホテルにこもって、鏡に映る自分の姿を見ながら練習を重ねているはずだ。肩、帽子、ベルトなど、触れるべきところをしっかり触れているか、テンポよくできているかなど、寝る時間を削って励んでいるわけだ。
よく「サインを覚えるのは大変か?」「見落としは多いのか?」といった質問を受けるが、これはセンスというか、”野球脳”のある選手はすんなり習得するし、試合での見落としも少ない。その基本にあるのは、「展開をいかに理解しているか」という点にある。イニング、点差、打順、カウントなどが頭に入っていれば、選手の方からベンチの指示を予想できるようになる。当然のことだが、それぐらいでなければプロで生き残ることは難しい。
こうしたプロ野球の攻撃用のサインだが、1試合でいくつぐらい出されていると思われるだろうか。ごく平均的な試合展開なら、3つがせいぜいだろう。競った試合であっても、5つぐらいだろうか。言い換えれば、原則的には選手の力量によって試合は動いているといえる。ベンチの指示、つまりサインはそうした展開で極めて大事な局面のときに施す、いわば隠し味のようなものなのかもしれない。