ウインブルドンのセンターコートは、おそらくはテレビの集音マイクが拾いきれぬ、多くの音に満ちている。 観客や選手たちを「男性=Men」「女性=Women」ではなく、「紳士=Gentlemen」「淑女=Ladies」と称する品位のウインブ…

 ウインブルドンのセンターコートは、おそらくはテレビの集音マイクが拾いきれぬ、多くの音に満ちている。

 観客や選手たちを「男性=Men」「女性=Women」ではなく、「紳士=Gentlemen」「淑女=Ladies」と称する品位のウインブルドンでは、客席の声援や熱狂度も他の大会に比べて幾分、上品で控えめだ。だがその分、思わず漏れる歓声やため息に、リアルな情感が込められる。



ジョコビッチに敗れてベスト4入りを逃した錦織圭

 ノバク・ジョコビッチ(セルビア)と錦織圭の準々決勝では、序盤から多くの声と情動が、客席に大きくせり出す庇(ひさし)の下でこだました。

 試合開始4ゲーム目で、互いにドロップショットとボレーを打ち合うネット際の攻防から、ジョコビッチがフォアの強打でポイントを奪ったとき、元世界1位に対する敬意の声が沸き起こる。だが、続くゲームで、ロブで頭上を抜かれた錦織が鮮やかに股抜きショットを打ち返し、最後は鋭角にコートを切り裂くバックの強打でポイントを奪ったとき、興奮の叫びが客席から沸き起こった。

「What a point(なんてポイントだ)!」

 客席の一角からあがった叫びが、多くのファンの思いを代弁する。

 そして、このポイントを機に、錦織の快打には驚嘆の声が、ミスには落胆のため息が、観客から漏れるようになり始めた。勇猛かつ華麗に攻める錦織の姿に呼応して、センターコートの感情は驚喜と失意を行き来した。

 第1セットを奪ったジョコビッチ優勢の潮目が変わったのは、第2セットの第2ゲーム。3連続のブレークポイントに瀕(ひん)した危機を、錦織が切り抜けたときだった。

 好機を逃したジョコビッチがラケットを投げ捨てると、「芝を痛めた」として警告が与えられる。納得できぬジョコビッチは主審に食い下がるが、抗議の怒声は、客席からのブーイングを呼んだ。数を増す声援を背に、直後のゲームを錦織がブレーク。そのリードを維持し、錦織が第2セットを奪ったとき、拍手と歓声がセンターコートを包んだ。

 第3セットにも勢いを持ち込んだ錦織は、第5ゲームで3連続のブレークチャンスを掴む。しかし、直後の打ち合いでは、リスクを負ってストレートに放ったバックハンドが大きくラインを逸れていった。

 ボールがラケットを離れた直後に、早くも「あー」と失意の声が、そこかしこからあがる。これを含めて4連続でポイントを失った錦織は、ブレークの機を……そして結果的には、この試合最大のターニングポイントを逃す。直後のゲームを錦織が落とし、第3セットはジョコビッチの手に渡った。

 それでもまだ、第4セット最初のゲームをブレークしたとき、錦織に挽回のチャンスはあるかに思われた。だが、その直後のゲームで、ジョコビッチはこれまで以上にフォアハンドで攻勢に出る。

 ラインをかすめる強打でブレークポイントを手にすると、続く打ち合いでは錦織を左右に走らせ、浮き玉を誘った。滞空時間の長いボールを叩き込むべくジョコビッチが構えたとき、客席から「That’s it(これで決まった)」の声がもれる。それはあくまで、この1ポイントを指しての言葉だが、まるでその後の展開を暗示するようでもあった。

 ブレークバックに成功したジョコビッチは、一気に攻勢に出て、やや疲労の色を見せ始めた錦織を突き放す。最後は快音を響かすジョコビッチのフォアの逆クロスが、2時間34分の戦いに終止符を打った。健闘を称える温かい拍手を背に受け、ラケットバックに結びつけたプレーヤー身分証を揺らしながら、錦織はセンターコートの通路奥へと姿を消した。

 敗戦の約1時間後――。会見室の錦織は、試合のターニングポイントとなった第3セットの第5ゲームを淡々と振り返る。

「おそらくはあそこが、最大のチャンスだった。ただ、あの場面で彼はすばらしいプレーで3ポイントを奪った。もし、あのゲームを取れていたら、試合は別のものになっていたかもしれない」

 そう冷静に語る声は、悔しさを押し殺しているようだった。

「サーブがよくなってきているのと、芝で自分のテニスを見出せたのは大きな収穫。今日は悔しいですが、次につながる2週間だったと思います」

 4つの勝利と1つの敗戦を連ねたウインブルドンを、彼はそう集約した。

 センターコートをため息と歓声に満たしたテニスに、悔いと希望を詰め込み”聖地”を後にする。