試合が終わったときの彼の顔に、笑みはほとんどなかった。 ネット際で対戦相手と握手を交わし、労をねぎらうように肩を叩く。同じIMGアカデミーを拠点とする4歳年少者との対戦は、「もし選べるなら、友人との試合は避けたい」一戦であった。同門対…

 試合が終わったときの彼の顔に、笑みはほとんどなかった。

 ネット際で対戦相手と握手を交わし、労をねぎらうように肩を叩く。同じIMGアカデミーを拠点とする4歳年少者との対戦は、「もし選べるなら、友人との試合は避けたい」一戦であった。



同門対決を制した錦織圭に笑みはなく......

 クリスチャン・ハリソン(アメリカ)は、予選あがりの198位。グランドスラム本戦は今回が2度目であり、錦織圭とは実力や経験の面でも大きな開きがあることは間違いない。

 ただし、その差を縮めかねない要素が、ウインブルドン開幕戦のコートにはいくつか散りばめられていた。ひとつは、強風――。雲ひとつないこの日のロンドン上空には強風が吹き抜け、ただでさえイレギュラーなどが多い芝でのプレーを、より困難なものにしていた。
 
 さらには、ハリソンが放つ回転の少ない低い打球は、芝との相性がいい。予選の3試合を上がってきた相手には、芝での実戦慣れと自信もある。

 角度をつけた相手のショットに走らされながら、錦織は「芝でいいボールを打てている。これで予選を上がってきたんだろうな」と感じていた。第2セットは、ネットプレーやドロップショットにロブなど多彩なショットを操りはじめたハリソンの前に、錦織は後手にまわりセットを失った。

 第3セットも互いにブレークを奪い合う、競った展開となる。もつれこんだタイブレークでも、ダブルフォールトでほしいポイントを落とすなど、危ない場面も幾度かあった。

 それでも終盤に向かうにつれて、錦織はサーブをはじめショットの精度を高めていく。このセットを錦織が取った時点で、極限まで張り詰めていたハリソンの集中力と闘争心の糸が幾分、緩みもしただろう。第4セットの序盤で一気にリードを広げた錦織が、そのまま勝利まで走り切った。

「今日は風があったので、難しくなることは想定していたが、なかなか気持ちいい試合にはならなかった」と、試合後の錦織は素直に認める。「気持ちいい試合」にならなかったのは、錦織のプレーを熟知する相手が、そうさせてくれなかった側面もあったはずだ。

 たとえば錦織との対戦が決まった後、ハリソンは父親であるコーチに球出しをしてもらいながら、錦織の高速リターン対策を繰り返していた。失うものはなく、なおかつ緻密な策をたずさえ全力で向かってきた友人との戦いが、難しいものだったのは当然だ。

 加えるなら、キャリアをあきらめても不思議ではない大ケガを幾度も負い、その度にコートに戻ってきたハリソンに、錦織は深い敬意を抱いてもいた。

「彼はツアーでもっとも努力する人。自分もケガが多いけれど、僕以上に多くのケガを乗り越えてきた」と弟分を評する声には、どこか自分の姿を重ねるような痛みもにじむ。その「愛着を覚える選手」に向けて、錦織は「彼がメインドローでプレーしているのがうれしい。必ずトップ100に入ってこられるはず」と熱いエールを送った。

 なお、余談になるが、皆が「いいヤツ」と声を揃えるハリソンもまた、他人の痛みに敏感であるようだ。IMGアカデミーを拠点としていた西岡良仁が昨年3月に前十字じん帯を損傷したとき、同じケガを経験したことのあるハリソンは、すぐに労(いたわ)りの言葉とともに、「自分のときはこのような治療やリハビリを試した」と助言のメッセージを送ってきたという。

 話を今日の試合に戻すと、錦織は8本を数えたダブルフォールトも含め、「修正しないといけないところ」を初戦のコートから持ち帰り、「レベルを上げていかないと、この先もちろん勝てない」と気を引き締めた。その意味では、次の試合はプレー面では今日以上に難解ではあるが、心理面では戦いやすい相手かもしれない。

 2回戦で対戦するバーナード・トミック(オーストラリア)は予選からの参戦であり、しかも予選決勝で敗れながら本戦に欠場者が出たため、繰り上がり出場した「ラッキールーザー」。ただし、現在のランキングこそ184位だが、7年前には18歳にしてウインブルドンベスト8進出を果たした、かつての「未来のスター候補」だ。

 しかも、芝をもっとも得意とし、スライスを主軸とした独特のリズムに相手を引きずり込む試合巧者。なお、成績を大きく下げたのは、コート内外の素行が原因で、常に周囲と軋轢を生み、テニスと真剣に向き合う時間が限られてきたためである。

 そんな3歳年少者を、錦織は、かつてはライバル視し、後にはその挙動を「自分にはできない」不可解なものとして見てきたきらいがある。次の対戦では「やりにくい相手」と危険視するのも、戦い方への迷いだろう。

 芝は錦織にとって決して得意なコートではなく、戦い方にしても「まだまだ模索中」だという。その彼が試合後に満面の笑みを見せたとき、未踏の”この先”への道がひらけるはずだ。