6月25日、ボルゴグラード・アレーナ。エジプト対サウジアラビア戦の前半22分だった。エジプト代表モハメド・サラーは美しい軌道の先制点を決めている。 相手ボールを自陣で奪った後のカウンター。サラーはディフェンスラインの裏に入ったパスに反…
6月25日、ボルゴグラード・アレーナ。エジプト対サウジアラビア戦の前半22分だった。エジプト代表モハメド・サラーは美しい軌道の先制点を決めている。
相手ボールを自陣で奪った後のカウンター。サラーはディフェンスラインの裏に入ったパスに反応した。サウジアラビアのディフェンダー2人の間に入り込むと、利き足の左足でボールを丁寧にコントロールした後、向かってきたGKの鼻先を破るように、左足で頭上に浮かせた。バウンドしたボールは、ふわりとゴールネットを揺らしている。
本来なら、歓喜を爆発させる瞬間だろう。
ところが、サラーは喜ぶ様子を見せなかった。駆け寄ってきたチームメイトとは小さく抱擁をかわしたが、むしろ憮然としているようにさえ見えた。歓喜に沸くスタンドと、コントラストを作っている。
サウジアラビア戦で先制点を挙げたが、モハメド・サラーに笑顔はなかった
その直後にも、サラーはオフサイドラインを破って裏に駆け抜けてスルーパスを受け、GKとの1対1に持ち込んでいる。しかし、フィニッシュは集中力に欠けており、ボールは枠を外れた。
「サラーは代表を取り巻く環境に嫌気がさし、代表引退を考えている」
試合前から、そんな噂がまことしやかに流れていた。
ロシアW杯、エジプトはウルグアイに0-1、ロシアに1-3と完敗。たった2試合で大会が事実上、終わってしまった。この体たらくに国内では批判が吹き荒れた。とくに槍玉に上がったのは、監督であるエクトール・クーペルだった。
「1億人のエジプト人の夢だったW杯出場を果たせた」
選手たちは全面的にクーペルを擁護したものの、批判は収まらなかった。
「90%のファンと協会幹部が、私のプレーメソッドに満足していない。契約を更新することはないだろう」
クーペルがそう洩らしたことで、確執は抜き差しならないところまできていた。
サラーはこの事態に責任を感じていたという。そもそも、チームの不調は自身の出遅れが大きな要因だった。5月26日のチャンピオンズリーグ決勝で、所属するリバプールはレアル・マドリードと対戦。サラーはセルヒオ・ラモスのラフプレーによって腕を痛め、復帰はW杯直前となった。結局、ウルグアイとの開幕戦には間に合っていない。エースの不在は大きく響くことになった。
クーペルの戦術は、激しく戦う堅守と、スピードと決定力のあるカウンターである。かつてバレンシアで欧州の覇権を争ったときも、抜群の守備力と、クラウディオ・ロペスというアタッカーを擁していた。スピードのあるフィニッシャーの存在こそが戦術ともいえるのだ。
その点、サラーはクーペルの申し子だった。
今シーズンはリバプールでも、そのスピードと決定力で目覚ましい活躍を見せている。リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドを追走する1シーズンだった。それだけに、エジプト代表として挑むロシアW杯も期待されていた。
だが、直前で負ったケガによって、すべての計算が狂ってしまった。短期決戦では、たった1試合のつまずきが、なかなか取り戻せない。ロシアとの2試合目、サラーは強行出場し、PKで得点を挙げているが、チームを救うほどの力は見せることができなかった。
ただ、もしプレー内容に関する問題だけだったら、ここまでこじれていなかったはずだ。
まず、サラーとエジプトサッカー協会の関係はけっして良好とはいえなかった。協会はサラーに無断で、チャーター機の胴体に彼の写真を使用。他にもサラーを広告塔のように扱ったことが問題に発展している。
もうひとつ、重大なことがあった。エジプトはチェチェン共和国で代表キャンプを行なったのだが、その首長であるラムザン・カディロフが、ことあるごとにサラーを政治的に利用したのだ(チェチェンはロシアからの独立を考えているともいわれる)。政治のスポーツへの干渉。それはあってはならないことだった。
一連の”大人の事情”に巻き込まれたサラーは、代表引退どころか、W杯の途中で代表合宿から去るのではないかという話まで出ていた。
サウジアラビア戦で同点に追いつかれたエジプトは、終了間際に決勝点を決められ、3戦全敗でロシアを去ることになった。スタンドには大勢のエジプトサポーターがいたにもかかわらず、多くの選手が逃げるようにロッカールームに駆け込んでいった。
そんななかで、サラーはピッチにとどまり、相手選手と健闘を称え合い、観客に対して拍手を繰り返した。その表情はいたって穏やかだった。
ところがピッチを去りかけたとき、関係者に呼び止められた。フラッシュインタビューを受けるように、という指示だった。サラーはそれを無視した。するとその関係者は、人気者のサラーを抱き寄せながら、携帯で自撮りを始めた。虚しくなるような光景だった。
「W杯でプレーするのが夢だった」
大会前、サラーは明るくそう語っていた。
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