「高校1年生の時にサッカー部のマネージャーをやっていましたが、隣町の高校に、練習試合だと勝てるのに、公式戦だと必ず負けてしまうことを不思議に思っていました。高校2年生の時に入部したバレー部では、レギュラー組と補欠組の仲介役になりました。その…

「高校1年生の時にサッカー部のマネージャーをやっていましたが、隣町の高校に、練習試合だと勝てるのに、公式戦だと必ず負けてしまうことを不思議に思っていました。高校2年生の時に入部したバレー部では、レギュラー組と補欠組の仲介役になりました。その実体験からスポーツはただスポーツだけをやっていればいいわけではないことを知りました」

(椎名 純代)

今でこそ、アスリートが取り入れるメンタルスキルトレーニングやスポーツ心理学という言葉はよく聞きますが、椎名さんが学生だった頃は、日本ではまだ知られていない分野でした。そこで、高校生の時に部活で感じていた疑問を解決するために、持ち前の探求心と行動力で、本場アメリカで学ぶことを決意します。

とはいえ、アメリカへ渡ったからといって、すぐにスポーツ心理学を学べるわけではありません。やっとスポーツ心理学を学ぶことができて、このままアメリカに残りたいと思っていた矢先に、同時多発テロ事件が起こり、外国人への風当たりが強くなってしまいます。

このような体験から、物事を決めたり、目標を立てたりするには自ら期限を設定して動くことの重要性も学びます。これらの経験を活かし、日本へ帰国後はJリーグの新人研修、日本オリンピック委員会、川崎フロンターレなどで目標設定の研修を担当。現在はラグビートップリーグのクボタスピアーズで通訳兼ライフスキルカウンセラーとして活動されている椎名純代さんにスポーツ界へ進んだ経緯をお聞きしました。

スポーツ心理学を志した原体験

私は高校1年生の時にサッカー部のマネージャーをやっていたのですが、例えば隣町の高校と練習試合では勝てるのに、公式戦になると必ず負けてしまうようなことがありました。技術面、能力ですごく差があるわけではないのに、どうしてだろうと不思議に思いました。

その後、高校2年生のとき、運動音痴ながらも清水の舞台から飛び降りる気持ちでバレー部に入部しました。私は部内で初心者だったこともありレギュラー組と補欠組の両方の話を聞くような立場でした。そこで思ったのが、「双方がうまくコミュニケーションを取ることができたらチームが強くなるんじゃないかな」ということです。

これら2つの経験から、こういったスポーツにおける心理面を仕事としてできないのか。そのためには海外へ留学した方がよいのかなと漠然と考えるようになりました。その後、留学をするにしても日本では短大へは行った方が良いとの両親からの勧めもあり短大へ進学しました。その短大の体育の先生が偶然メンタル的なことを授業に取り入れている方で、どこで勉強するのが良いかを聞いたら“アメリカ”だと。そこで短大卒業後は留学をするつもりで、バイトを3つ掛け持ちしていたので、卒業後に渡米することにしました。

9.11で感じた“外国人”への風当たり

短大の姉妹校がアメリカのユタ州のオレムにあったので、最初はそこのESL(English as a Second Language、英語を母国語としない人向けのコース)に通いました。その後は、コミュニティカレッジ(公立の2年制の大学)へ通い、そこから心理学を学ぶために州立ユタ大学に編入しました。スポーツ心理学を学部生でも専攻できると思っていたのですが、大学院へ行かないとダメだと言われてしまったんです。

学部では心理学を2年専攻し、その後進んだマサチューセッツ州にあるスプリングフィールド大学大学院でようやくスポーツ心理学を本格的に学ぶことができました。アメリカへ渡ってからそこへ辿り着くまでは長かったですね。コミュニティカレッジでは日本人が多かったのですが、ユタ大学にはほとんどいませんでした。心理学の授業では、学生が100人くらいいても、日本人、アジア人らしき学生は1人か2人。読まなければいけない文献が多いのですが、当時は電子辞書もないので、分厚い和英と英和2冊持って授業に臨んでいました。ですが、心理学の病気に関わる専門用語は載っていないので、もうパニックでしたね。教室の中でアジア人らしき人を見つけては、授業の後に「一緒に勉強してくれませんか。お願いします」と声を掛けていました。本を読んでレポート、また読んでレポートと、とにかくその量が多いので、いつも図書館で泣きながらやっていました。そのお陰で大学院へ入る頃には読むことに関してはだいぶ分かるようになりました。

大学院卒業後はアメリカに残りたいと考えていました。ところが、卒業の年にアメリカ同時多発テロ事件が起こり、外国人への風当たりもきつくなっていったんですね。そこで、自分で期限を決めて、その時までに仕事が決まらなければ帰国しようと。結局フルタイムの仕事は決まらず、日本へ戻ることにしました。アメリカにはトータル9年弱いました。

ほぼ野宿の中で経験したインターン
日本へ帰国する前に「冒険(アドベンチャー)教育」を行う会社でインターンシップを経験しました。冒険教育というのはアメリカの教育者や心理学者によって開発された、野外での冒険を通じて他者との協力、信頼関係の構築、自分自身やチームの成長を促すことを目的としたプログラムです。大学院で学んだことは主にマンツーマンの関係でした。そのため、複数になったときはどう対応したら良いか、また冒険教育であればグループ全体に働きかけができることに興味を持ったんですね。これをカウンセリングと合わせて使うと、ものすごくパワフルになるのではないかと思い、インターンで学びたいと考えたんです。

冒険教育では、日本でいうアスレッチックのようなものをします。例えば、ヘルメットをして高いところからジャンプをするのですが、命綱を支えるのはインストラクターではなく、仲間、チームメイトです。仲間に命を預けるという心の冒険の疑似体験をするんです。もちろん、いきなりそれをやるのではなく、それまでに地上で信頼関係を築くアクティビティをやり、信頼関係を築いてから行います。一般の学校の小学校4年生くらいのお子さんたちから、企業研修など、様々な団体が来ていましたね。冒険教育の手法は日本でもJリーグなどのチームスポーツで取り入れられていますし、私自身川崎フロンターレのジュニアでアスレティックカウンセラーをしていた時には、このインターンで学んだ要素をプログラムに取り入れていました。

今振り返ってみると、私のインターン自体も冒険でした。日本であれば自分で手配する必要がある事を事前に連絡してくれると思いますが、アメリカはそういったことがありません。私も甘かったと思うのですが、インターン先へ行くと住む場所も何も用意されておらず、困っていたところ、「ここにテント張って寝ればいいよ」と言われました。テントを張ったことはありませんでしたし、そこは野生動物が多く生息する自然保護区だったのでとても不安でしたが、近所にあったアウトドア用品のお店に行ってテントとコンロなど、一通り買い揃えてなんとかインターンをはじめました。

インターンは1か月の予定でしたが、1週間やって「もう無理!」とテントを畳んで帰ろうとした日に、ちょうど近所に空き部屋が出たんですね。これは続けろというサインだと思い、1か月やり切りました。

【▷次ページ】目標や夢を逆算することが実現への第一歩

一度は断られたスポーツの世界へ
日本に帰国後は米国留学で学んだことをベースに、フリーランスとしてワークショップの研修の講師などをさせてもらいました。研修へ行けば、父親くらいの年齢の監督が「先生、先生」と呼んでくれるわけじゃないですか。でも、私は社会人経験もなく、電話の受け方すらできていなくて。「このままでは人間としてダメになる。一度社会人経験をしなければ」と思ったので、いったんスポーツはおいて、業界は問わず正社員になろうと就職活動をしました。それを経て入社した会社は一部上場企業だったのですが、英語が喋れるというだけで、役員秘書を命じられたんですね。

最初に「秘書なんてできません。いいんですか?」と聞きましたよ。社会人経験がなく、基本的なビジネスマナーから身に付けたいということを就職活動中に伝えていたのに。電話が取れない役員秘書なんて当然使えませんから、恥ずかしい失敗もたくさんしました。

自分の中で3年間は社会人経験を積もうと考えていましたが、その3年が経つ頃にインターネットで自分が活躍することができそうな会社を調べていたらとあるスポーツマネジメント会社を見つけました。当時は会社も小さく、新しい社員は募集していないと言われてしまいました。ですが、少し経ってから、早稲田大学ラグビー部の監督が清宮克幸さんから中竹竜二さんに変わって、ライフスキルプログラムを導入することになったと連絡があったんです。人手が足りないから私にやってくれないか、と。

早稲田のラグビー部は部員が120人くらいいます。全員を一度に研修することは大変でしたが、ライフスキルプログラムの「目標設定」についての研修を担当させてもらいました。後にトップリーグで活躍した学生さんがたくさんいましたね。例えば、現在もヤマハ発動機ジュビロで活躍する矢富選手が4年生の頃で、五郎丸選手もいましたよ。


そして、その後は川崎フロンターレではアカデミーのアスレティックカウンセラーとして、小学4年生が中心のU10から高校年代までを担当しました。大きな目標や夢を逆算することで、子供たちは夢を叶えようと努力をするということを、ここで確信しましたね。

フロンターレでは私が考案した目標設定シートを導入し、(シートはこちらからダウンロード可能  http://g-sport.jp/wp-content/themes/g-sport2015/pdf/goalsetsheet.pdf )「競技のスキル・テクニックに関するもの」「メンタル(気持ち・心構え)に関するもの」「コンディショニング(食事・睡眠)に関するもの」「学校/その他に関するもの」という4つの項目の今月の目標を立ててもらいました。毎日達成度を記録して、1か月経ったときにフィードバックを行います。本人だけではなく、保護者、コーチからのコメントももらい、3者間での交換日記のようなものでした。

目標設定の立て方もスキルなので習得するまで個人差があるので教えてもすぐにできるものではなく、長い子は3年、4年かけてやっと設定できるようになるんですよ。正しい目標が立てられるようになるまではひたすらフィードバックをしていました。私が担当していた頃は、岸晃司選手(専修大学サッカー部所属)や三好康児選手(J1・コンサドーレ札幌所属)が小学校5、6年生で在籍していました。フロンターレで長く見てきた子たちが活躍する姿を観るのは嬉しいです。

未知の世界、ラグビーチームの通訳に

ある日、スポーツマネジメント時代の伝で「ラグビートップリーグのクボタスピアーズが通訳を探しているけれど興味はないですか?」と声を掛けていただきました。興味があったので、チームの石川GMにお会いしたのですが、「ラグビーのことは分かりません。通訳もお手伝いをしたことはあるけれど、仕事としてやったことはないです」と正直にお伝えしました。それでも先方は受け入れてくれて、ラグビーの世界で働くことになります。

そこでは元オーストラリア代表でW杯優勝も経験しているトウタイ・ケフHCの通訳を2年、務めました。ケフは日本滞在歴が長いので日本語を話すことはしませんが、聞いて理解することはできますし、彼の英語もわかりやすかったですね。

それでも、私自身がラグビー用語は分からないし、さらにチーム独自のサインが色々ある中で、それを伝えるのは難しかったです。

基本的なサインやポジション名をやっと覚えたと思っても、外国人選手は出身国によっても違う言い方をします。本当に難しかったですね。なので、最初の練習は何も訳すことができませんでした。あまりにきつくて最初の頃はストレスでクラブハウスに近づくと過呼吸症候群のようになってしまうこともありました。選手たちのことも分からず、自分自身が緊張しすぎていた部分もあったと思いますが、信頼関係も築けてリラックスして話せるようになった3か月目くらいでその症状は治まりました。

ケフ体制が終わった後にHCとなったのが、南アフリカ出身ののフラン・ルディケです。彼がは就任前に来日してスタッフ全員と個人面談をしたのですが、その面談を訳しながら、考え方などが素晴らしい方だと感じ、残れるのであればこの人のもとでやってみたいなと感じました。幸い継続のオファーも頂くことができ、チームに残りました。

実はケフ時代から通訳のみでなく、ファシリテーターという肩書も持ち「目標設定」などのワークショップを行っていました。後任のルディケは、元々教師であり、スポーツ心理の知識も豊富なので、それをサポートできるような形でやれないかと、今は「通訳 兼 ライフスキルカウンセラー」として仕事をさせてもらっています。私自身、サッカー、ゴルフなどのスポーツ選手とも接してきているので、そういったバックグラウンドも活かされていると思います。

スポーツの環境は変わりつつある

私自身、ライフワークとしてブラインドサッカーのパンクしたボールを再利用する取り組みを行っています。思い出がいっぱい詰まっているランドセルも捨てずに、ミニランドセルにリメイクするとかあるじゃないですか。思い出のボールを違った形で保管することが出来ないかなと思ったことがきっかけで始めました。

ブラインドサッカーのパンクしたボールをもらい、社会福祉事務所で解体してもらっているのですが、社会福祉事務所で働く障がいを持つお子さんたちの中には、かつては部活でサッカーをやっていたという子が多くて、喜んでパンクしたボールを剥がしてくれるんです。その解体で出来たピースを再利用するのですが、ブラインドサッカーの会場で、来場したサッカー好きのお子さんたちに好きな色、好きなピースでキーホルダーを作ってもらうというワークショップを行っています。

これは5年ほど取り組んではいますが、開催も不定期なので、活動自体があまり広がっていません。今後もっと知られたら、来場したお子さんたちにはサッカーボールのキーホルダーを作って喜んで頂けるし、社会福祉事務所で働くお子さんたちへも賃金の提供ができるので、広めたいと思っています。

このように、様々な形でスポーツに携わっていますが、昔とはスポーツの環境が変わっていることもあって、以前は思いつかなかった理由で困っている人たちがいるんじゃないかなと思っています。時代、時代に応じてそういった人たちの悩みを私が解決するというよりは、解決するきっかけ作りの場や機会を提供できたらいいなと思っています。