遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(17) 岩政大樹 前編鈴木優磨の証言から読む>>開催中のW杯では解説の仕事もこなす岩政大樹「僕と同世代の選手はプラチナ世代と言われてきたけれど、それは宇佐美(貴史)や(柴崎)岳のことであって…
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(17)
岩政大樹 前編
鈴木優磨の証言から読む>>
開催中のW杯では解説の仕事もこなす岩政大樹
「僕と同世代の選手はプラチナ世代と言われてきたけれど、それは宇佐美(貴史)や(柴崎)岳のことであって、僕はその端っこにいるかどうか、プラチナ世代でも何でもなかったからね」
6月19日、ロシア・サランスク。日本代表のワールドカップ初戦、勝利したコロンビア戦で先発出場した昌子源は、うれしそうにそう語った。年代別の世界大会とは無縁の存在だった昌子が頭角を現したのは、鹿島アントラーズでプロとしての道を歩み始めてからだった。そんな昌子のように、アントラーズで成長し、代表入りしたセンターバックがいる。秋田豊であり、今回登場する岩政大樹だ。
2014年にタイ・プレミアリーグ、BECテロ・サーサナFCへ移籍するまでの10シーズン、リーグ戦290試合に出場し、不動のセンターバックとして、3連覇(2007年~2009年)達成に貢献した岩政大樹(いわまさ・だいき)。帰国後の2015年からファジアーノ岡山で2シーズンプレー。2017年には関東1部リーグの東京ユナイテッドFCに所属し、選手としてだけでなく、コーチも兼任し、同時にサッカー番組のMCや解説者を務めるなど、幅広いフィールドで活躍している。
* * *
――鹿島アントラーズというクラブを意識したのはいつ頃でしたか?
「小学校の高学年になって、本格的にサッカーを始めた時期にJリーグが開幕するんですが、その開幕戦でのジーコさんのハットトリックは衝撃的でしたね。そこからJリーグブームが起きて、日本代表にも注目が集まって、サッカー界が大きく変わり始めるんだなというのを子供ながらに実感しましたね。
鹿島は逆境に強いクラブという印象があって、好きだったんですよ。だから、ユニフォームやジャージなどグッズも持っていました」
――その鹿島から獲得のオファーが届いたと。
「アントラーズから正式なオファーをいただいたのが大学(東京学芸大)4年の春だったんです。当時すでにいくつかのクラブからお話をもらっていましたけど、鹿島でやれるなら、鹿島だろうと」
――鹿島で試合に出れば、日本代表にも近づけるというようなイメージはありましたか?
「特にはないですね。代表のことはそんなに考えていなかった。大学時代の取材でも『鹿島で長く活躍できる選手になりたい』と話しています。鹿島というクラブ、そしてチームメイトから信頼を得て、いわゆるバンディエラ(※)と呼ばれるような選手になることが目標でした。もちろん、その先に代表があるのかなとボンヤリとは考えていたかもしれませんが、代表のことは僕にとってのメインターゲットではなかったですね」
※旗頭。同一のクラブで、象徴として長く活躍する選手
――そして、2004年に鹿島の一員となるわけですが、チームの雰囲気をどんなふうに感じていましたか?
「他のクラブをよく知っているわけではありませんが、いくつか練習参加したクラブと比べると、練習場やクラブハウス全体を包む空気が、少し重いなというのは感じました。そこには厳しさみたいなものがあって、ヘタなことはできないんだというふうに思いましたね。でも、違和感はなかった。僕はずっとサッカーを続けながら、自分に厳しさを課してきたので」
――岩政さんと入れ替わるように秋田豊さんが移籍。レギュラー獲得のチャンスが巡ってきたわけですが……。
「トニーニョ・セレーゾ監督も開幕から僕を使おうと考えていたようで、キャンプから主力組でプレーしていたんですが、なかなか僕のプレーがフィットせずに、監督は僕の起用を諦めたんです。『まあ、まだ1年目。加入したばかりだしな』という考えもありますが、掴めたであろうものを自ら手放してしまったという思いがしばらく残っていたんです。だから正直、焦りもありました」
――ファーストステージから、ベンチには入っていましたが、先発の座を手にしたのが、セカンドステージ第7節のFC東京戦ですね。
「プロになってから、周りに気を使いながらプレーしている部分があったんです。自分の判断もプロのレベルに追いついていないところもあり、『そうじゃないだろう』と言われると、その声に合わせてしまう。レベルの高い場所へ来たのだから、そういうのは当然なんだけれど、周囲に気を使うことで、自分の判断やプレーにもブレが生じてしまう。自分を信じてプレーすべきだとわかっていても、何の根拠もないのに自信なんて持てない。そういう性格なので、まずは根拠を求めるので、なかなか打ち破れない半年間だったんです。
セカンドステージが始まる8月に、このまま1年目が終われば、2年目にポジションが手にできる保証もない。大卒ですから、悠長なことも言っていられない。誰が責任を取るんだと切実に思ったんです。だから、根拠なんてなくてもいいから、自分の感覚でプレーすべきだと割り切った。当時『無理やりの自信』と名前をつけたんですけど、無理やりにでも自信を持とうと。
セレーゾは厳しい監督でしたし、細かくいろいろと指示を出すし、チームメイトからの声もある。でも、すべてをいったん遮断して、自分の基準でプレーしようと。それでダメなら自己責任だけど、周りの声に従ってプレーしてどうするんだと開き直りました。
そうしたら、周りの僕を見る目が変わり、監督もチャンスがあれば使ってみようというふうに思ってくれるようになったと感じました。そんななか、金古(聖司)さんが、出場停止になったタイミングで先発に起用されたんです」
――その試合に勝利し、その後は不動のセンターバックとして君臨し、2014年に移籍することになります。鹿島で引退ということは考えなかったのでしょうか?
「ACミランのマルディーニのように、ひとつのクラブだけで現役を全うするということに憧れる時期も確かにありました。でも、鹿島以外のクラブを知ることも、また自分の人生において重要だと思ったんです。それで、2010年頃から鹿島を出ることを考え始めました。移籍しても、鹿島と対戦するつもりはなかったので、まずは海外を視野に入れました」
――鹿島とは対戦したくなかったのですか?
「はい。今までずっと鹿島を勝たせるためにやってきたのに、他のチームへ行って、今度は鹿島を倒すぞと心底思えるわけはないだろうと。実際どうなのかはわからないけれど、そういう心境でプレーをしたくはない。それは鹿島に限らず、岡山を出るときには岡山と対戦したくはないと思いましたから。そんなことなく戦うのがある意味プロなのかもしれませんが、僕には難しいなという判断でした」
(つづく)
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