【連載】チームを変えるコーチの言葉〜千葉ロッテマリーンズ ヘッドコーチ・鳥越裕介(4)() 現在はロッテの一軍ヘッド…
【連載】チームを変えるコーチの言葉〜千葉ロッテマリーンズ ヘッドコーチ・鳥越裕介(4)
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現在はロッテの一軍ヘッドコーチを務める鳥越裕介だが、ソフトバンクで現役を引退した後は二軍の指導者だった。2006年オフの秋季キャンプから08年まで内野守備・走塁コーチを務め、09年から二軍監督。当時からチームの雰囲気をなにより重視していた鳥越は、たとえ二軍の試合であっても勝つことを大事にした。

現役時代、中日、ソフトバンクで13年間プレーした鳥越裕介(写真左)
その一方で、若手を育成する現場の指導者ならではの責任を思い知らされていた。鳥越が当時を振り返る。
「選手の親御さんから、よく『お願いします』って言われていたんです。特にキャンプで新人選手の親御さんに会ったとき。みなさん、僕より年上なんですけど、『監督、ウチの子、よろしくお願いします』って頭を下げるんですよ。これはもう自分自身、大変なものを預かるんだな、という責任の重さを感じましたよね。
僕は子どもがいないので、なんとも言えないところはあるんですけど、そのとき親にとって子どもは宝物なんだって教えられました。そこで、子どもが宝物ならば、そのまま選手は宝物なんだから、僕らが本当にしっかり見てあげなきゃいけないと痛感したんです」
若い選手を指導するのは子育てと一緒なんじゃないか――。鳥越はそんな気づきを得ながら二軍監督、コーチを務めてきた。「プロ野球選手も一社会人であって、日常生活という普通のことを普通にできなくてなにが偉いのか」という考えを持つだけに、必然的に目指すべき指導者像は親だと思うようになった。
「お父さんであり、お母さん。父性と母性、両方を併せ持っているコーチを目指してやってきました。たとえば、いま言ったように僕は子育ての経験ないんですけど、子どもって、すぐ親の真似をすると思います。だったらコーチとして、選手の前での言動には気をつけないといけない。
子どもはいいことより悪いことを真似しがちだっていいますからね。その点、ご飯のときにヒジをつかないとか、家庭でもルールってあると思うんですけど、まず親が見本を見せないといけない。それでも子どもがヒジをついていたら、ただ叱るんじゃなくて、こういうルールなんだよって教えてあげなきゃいけない。野球の現場も家庭も一緒だと思いますね」
当然ながら、親と同じように向き合うといっても、ただ日常生活から選手を厳しく見守るだけではない。ホークス時代、守備コーチとしてノックをすれば、一球ずつ、心を込めて打った。一瞬たりとも気を抜かずに打つことで、練習であっても試合と同じ集中度と真剣味が生まれる雰囲気を選手間にもたらした。わずかでも気の緩みが見える選手がいれば、実績十分で何度もゴールデン・グラブ賞を受賞した主力選手でも厳しく叱った。
はたして、そこまで徹底して指導する姿勢はどこでどう培われたのか。特に影響を受けた指導者はいたのだろうか。
「13年間の現役生活すべてでしょうね。中日から始まってダイエー、ソフトバンクでやらせてもらいましたけど、それぞれの会社から、首脳陣の方から、出会った人すべてですね、いいものも、悪いものも……。
たとえば、上の人から理不尽な感じで言われたときに、正直、おかしい、こんなんありえないだろうって思ったこと。自分が指導する立場になったとき、そういうことは絶対、自分ではやりたくないという思いがありました。確かに、コーチとして選手を厳しく叱ってきましたけど、それにはそれなりの理由があるわけで。そういう面で唯一、名前を挙げるとしたら、島野育夫さんです」
島野は現役時代、中日、南海(現・ソフトバンク)、阪神で18年間、外野手としてプレーし、1980年限りで引退。その後、阪神、中日でコーチを務めた。星野仙一が中日、阪神で監督を務めた際に重用され、作戦参謀として不可欠な存在だったことで知られる。
2007年に63歳の若さで鬼籍に入り、星野も今年1月に逝去したが、いずれも生前、中日時代の鳥越を指導した野球人である。そのなかで島野と鳥越が出会ったのは1995年、阪神から移籍した島野が二軍監督に就任したときだった。
「島野さんはですね……あの人、星野さんよりも100倍ぐらい怖かったです。あるとき『この人に殺される……』と本気で思ったことがあります(笑)。星野さんにとって僕は明治大の後輩でもあり、それはもうボコボコにやられましたけど、『殺される』とは思わなかった。でも島野さんには1回だけ、うしろからグワーッて来られたときがあって、殴られてはいないんですけど、目に血管がグーッと出てたんで、『うわっ、殺される……』って」
試合で全力疾走しなかったり、ベースカバーに入らなかったり、怠慢プレーがあった選手に対して、島野は激怒した。だが鳥越自身、野球で怒られたことはほとんどなかった。実際、そのときも野球ではなく、若さゆえの生意気な態度が怒りを買った。
要は、日常生活の”普通のこと”を疎(おろそ)かにしていたのだが、鳥越にすれば疎かにならざるを得ない理由があった。だから、島野に注意された瞬間は理不尽だと感じ、思わず態度に出てしまったのだ。
「若かったな、生意気だったな……と自分で思います。ただ、ここでいちばん言いたいのは、あの人に怒られて納得感があった、ということです。言われた瞬間は感情的になってわからなかったことが、目が血走るほど本気で怒られたとき、『それは言われるよね』『しょうがないよね』って理解できました。
島野さんは怒ったら怖いけど、よく冗談も言いますし、ものすごくいいおっさん(笑)。指導者はそういうふうにならなきゃダメだと思いましたし、このときの経験は今につながっています」
思いがけず、島野のやさしさを実感したこともあった。1999年6月、シーズン中のトレードで鳥越のダイエー移籍が決まったときだ。すぐに福岡に行かなければならなかったが、島野から「おい、ちょっと出てこい!」と連絡があった。言われた店に行くと、少人数だったがチームメイトとスタッフが集まっていた。「お前のお別れ会だ」と島野が言った。
ささやかな送別会に感謝しながらダイエーに移ったあと、機会は多くなかったが、鳥越は島野に会うたびに「よう頑張っとるな」と声をかけられた。特別打っているわけでもなく、守備要員でベンチに控えることが多かったから、「なんで? 全然ダメですよ。生活のこと考えるので精一杯ですから」と返しても、「いや、よう頑張っとる」だった。
「なにかと思ったら、一軍にいることなんですね。一軍にいることが、選手としてよく頑張っていることなんだって、引退して、二軍コーチになって初めてわかりました。だから今、僕は一軍のコーチをやっていますけど、島野さんをお手本にして、一軍にいる選手に『よう頑張っとるな』って言うようにしています。その言葉自体はなんていうことないんですよ。でも、すごい言葉だと思います」
ヘッドコーチとして一部で”鬼軍曹”と称されつつ、指導者として”親”を目指す鳥越の原点が、島野育夫という野球人の言葉にあった。
「親だからこそ、子に対して『それはあかん!』って、鬼にならないといけないときがあります。僕も歳をとったんで、ガーッて怒ったりはしないですけどね。そして、原点は島野さんだとしても、今につながっているのは本当に各監督、各コーチの方との出会いです。監督は星野さん、髙木守道さん、王貞治さんに仕えましたけど、どの監督もよく使ってくれましたよ、僕みたいな選手を。だから、そういうことも含めて、13年間すべてだと思います」
つづく
(=敬称略)