齋藤学インタビュー@後編 齋藤学が横浜F・マリノスから川崎フロンターレへと移籍することが発表されたのは、2018年1月12日だった。8歳から育ってきたクラブを出て、違うチームでプレーすることは、彼にとって大きな挑戦でもあった。「齋藤学イ…

齋藤学インタビュー@後編

 齋藤学が横浜F・マリノスから川崎フロンターレへと移籍することが発表されたのは、2018年1月12日だった。8歳から育ってきたクラブを出て、違うチームでプレーすることは、彼にとって大きな挑戦でもあった。

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横浜F・マリノス戦で古巣からブーイングを浴びたとき、齋藤は何を思ったか

 4年前のワールドカップで日本代表に選ばれながら、ピッチに立つことができなかった齋藤は、「自分自身の何かを変えなければならない」と、食生活からトレーニングまで、ありとあらゆることにトライしてきた。それだけに、プロとして10年目を迎えた今年、移籍を決断したのも、”変化”のひとつだったのかもしれない。

「横浜F・マリノスではキャプテンで、背番号も10番で、年齢的にも年下の選手がたくさんいて、気持ちよくサッカーができる環境にあった。若いころに期限付き移籍したことはありましたけど、正式に違うクラブへ移籍するというのは初めてのこと。

 しかも、フロンターレは前線に(中村)憲剛さんがいて、(小林)悠くんがいて、アキさん(家長昭博)がいて、阿部(浩之)くんがいて、昨季リーグ優勝していて、チームとしてもできあがっている。そこに(大久保)嘉人さんまで戻ってきたわけですからね。ケガも治っていない自分自身がそこにいくこと自体が、相当なチャレンジになることはわかっていた」

 移籍が決まったのが遅かったことと、前年9月に負傷した右ひざ前十字じん帯のケガが治っていなかったこともあり、1次キャンプには合流できなかった。

「僕、みんなと初めて会ったのは(1月21日の)新体制発表会だったんですよね。合流は遅いし、ボールも蹴れないしで、最初は不安のほうが大きかったですよ。でも、前々から知っている(森谷)賢太郎くんとか、悠くんとかが連絡を取ってきてくれて、僕がチームに入りやすいように気を遣ってくれた。

 だから今も、チームメイトから食事に誘われたら、それもコミュニケーションを取る大事な機会だと思って、なるべく行くようにしています。シーズン序盤はACL(AFCチャンピオンズリーグ)があって、チームが海外遠征に行ってしまうこともあったので、そういうときには残っている若手選手たちと食事に行ったり、話す機会を持つように心がけてました」

 さすがに目標としていた5ヵ月とはいかなかったが、5ヵ月半という早期復帰だった。4月8日に行なわれたJ1第6節の後半32分、阿部に代わって齋藤は途中出場でピッチに立った。

「悠くんが体調不良になって、急遽メンバーに入ったんですよね。3月25日の練習試合に出て、その1週間前くらいからみんなと一緒に練習し始めたんですけど、楽しくて楽しくて仕方がないメンタル状態になれていたから、復帰戦もワクワクしていた」

 ただ、運命の悪戯(いたずら)か、それとも宿命なのか、奇しくも復帰戦の相手は、古巣・横浜F・マリノスだった。しかも舞台は、長年プレーしていた日産スタジアム。当然ながら、大ブーイングがスタジアムにこだました。

「まさか日産スタジアムで復帰するとは、さすがに想像していませんでしたね。移籍して苦しいこともありますけど、環境を変えることで、自分自身がまた変わっていくことも実感しているので、そこはポジティブに捉えたい。

 約4万人にブーイングされた経験も、きっと自分自身を成長させてくれると思う。リハビリしている間って、ホント、いろいろなことを自問自答するんですよ。でも、その期間も含めて、すべてがプラスになっていると思っています」

 そんな齋藤の目に、フロンターレのサッカーとはどのように映っているのか――。

「加入して真っ先に感じたのは、『止めて、蹴る』の質が本当に高いこと。試合に出ている人だけでなく、チーム全体として、そこの質が高い。だから試合でも、あれだけボールを回すことができるんだって、すぐに感じました。

 自分も、止めて蹴るには自信がありましたけど、ケガ明けで最初に合流したときは、すごく狭いエリアでパスをつなぐので、慣れるまでに時間がかかりました。そのことについても、昨季加入した阿部くんですら、最初は苦労したという話をしてくれて。そこに合わせようとし過ぎるのではなく、僕には自分の武器があるんだから、そこを認めさせるほうが大事なんじゃないかって言ってくれたんです」

 ショートパスをつないでゴールをこじ開けるようとする川崎フロンターレのサッカーにおいて、ドリブルという武器で違いを出すことができる。それこそが、齋藤の最大にして最高の特長である。

「まずは、自分自身のパフォーマンスを上げることですよね。身体のキレであったり、ドリブルの速度であったり、動き、さらにはゴールへの意欲もそう。そうしたものを高めていければ、絶対に試合に出られると思っている。

 でも、自分が点を獲るためだけの動きをしていればいいかと言われたら、そこは違う。守備も含めてチームとしてやらなければいけないことは多いので、自分の我を出すことも必要かもしれませんけど、まずはチームが勝つための選択をしていきたい」

 復帰してからは、すべてが順調というわけではない。右ひざではなく、違う箇所を痛めてコンディションが上がらず、ロシア・ワールドカップによる中断前のリーグ戦出場はわずか6試合。うち先発出場は1試合にとどまっている。

「まだ6試合ですもんね。アシストもなければ、得点もしていない。自分が出て勝った試合も少ないので、何しに来たんだって思われているところもあるかもしれない。

 でも、僕には、自分を獲ってくれた人への責任がある。自分のサッカー人生を振り返れば、ずっと横浜F・マリノスにいた可能性もあるわけですよね。それを断ち切って、川崎フロンターレに来たということには、必ず何か意味があると思うんです。だからこそ、その分、僕は多くの人を喜ばせなければいけないと思っている。その義務が自分にはあると思うんです」

 追いかけてきたワールドカップへの出場は叶わなかった。ケガからの復帰は遂げたが、満足のいく結果は残せていない。それでも……。

「結果的にワールドカップに出場することはできませんでしたけど、そこを目指す気持ちがあったから、僕は早くケガを治そうと思うことができた。そのために努力を続けることができたんです。先ほども言いましたけど、だから、すべては無駄ではなかったし、プラスになっていると思うんですよね。リハビリをしているなかでも学んだんですよ。1日1日の積み重ねが大事だっていうことを。

 ワールドカップに出場できないことは悲しいし、残念でしたけど、やっぱり、あそこはサッカー選手ならば誰もが目指す場所だと思うし、もう一度、目標を立てて、もう1回、日本代表に入れるような選手になりたいなって思う。言い訳に聞こえるかもしれませんけど、死なないかぎり、僕の人生も、サッカー人生も続くわけで、今はこのチームで、フロンターレでタイトルが獲れれば、またその経験が自分に生きてくると思うんです。ワールドカップで中断するこの2ヵ月で、もう一度、コンディションを作り直して、チームを勝たせられるように、自分自身のパフォーマンスを上げていきたい」

 すべてをかけてきた。そのために過酷な日々にも耐えたし、大きな決断もした。悔しい思いは簡単に消えることもなければ、色褪せることもない。

 ただ、その痛みが、その苦しみが、選手として、人間として、齋藤をひとまわりも、ふたまわりも、大きく、強くした。サッカー選手である以上、そこに終わりはない。次の4年はもう始まっている――。