私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第6回W杯で輝けなかった「エース」の本音~中村俊輔(3)(1)から読む>> (2)から読む>> 2010年南アフリカW杯を目前にしての壮行試合、日本vs韓国が5月24日に埼玉スタジアムで行なわれた…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第6回
W杯で輝けなかった「エース」の本音~中村俊輔(3)

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 2010年南アフリカW杯を目前にしての壮行試合、日本vs韓国が5月24日に埼玉スタジアムで行なわれた。

 スタメン出場した”エース”中村俊輔は、足首を痛めていて満足のいくプレーができず、後半18分に交代した。試合も0-2と完敗。スタンドからは激しいブーイングが飛んだ。

「春先に足首を痛めて、W杯に向けて負荷を上げていったんだけど、何だったんだろうね……。体のバランスが崩れて、フィジカルが落ちていったのかなぁ……。Jリーグでは何とかできていたけど、(相手が)韓国ぐらいになるとごまかしがきかない。それが、モロに出てしまった」

 それでも、中村はW杯本番に向けて気持ちを切り替えようとした。

 その夜、宿舎でミーティングが行なわれた。

 韓国相手にいいところなく敗れて、選手の間にも、これから戦いにいく世界の舞台に対する危機感が強まっていた。指揮官である岡田武史監督は、その空気を感じ取っていたのだろう。選手の前で、こう切り出した。

「俺は決断した。W杯仕様のサッカーに切り替える」

 中村はそう言われた瞬間、「俺は、もうないな」と思ったという。

 実は試合後、中村は厳しい表情の岡田監督にこう聞かれていた。

「足首、痛かったのか?」

「はい、少し」

 中村がそう答えると、岡田監督はそのままひと言も発せず、その場を去った。

 中村は失意のままスイス合宿に飛んだ。

 面と向かって「おまえはサブだ」と言われたわけではなかったが、最後に発した監督の言動が何を意味するのか、中村にはおおよそ理解できた。現地に入って、足首などのリハビリに専念していたが、練習を見ていると、自分の居場所がないことをほぼ確信した。

 中村の目に飛び込んできたのは、これまで採用したことがない戦術だった。システムは、4-1-2-3となり、中盤のアンカーに阿部勇樹が置かれた。

 日を追うごとにチームは様変わりし、オーストリアで行なわれた国際親善試合のイングランド戦(1-2)からGKは楢崎正剛から川島永嗣に代わった。そして、本番直前の最後の調整試合となったジンバブエ戦(30分×3本、0-0)では、1トップが岡崎慎司から本田圭佑に代わった。

 トップ下のポジションがなくなり、アンカー阿部の前にボランチの遠藤保仁と長谷部誠が配置され、右のサイドハーフに松井大輔、左のサイドハーフに大久保嘉人が入った。

 また、キャプテンが中澤佑二から長谷部に代わった。

 中村はアジア最終予選を戦ったチームの痕跡が、跡形もなく消えてしまったことに唖然とした。

「キャプテンがいつの間にか、ボンバー(中澤)からハセ(長谷部)になり、システムも変わった。正直、変化のスピードについていけなかった」

 大胆な改革でチームに大きな動揺があったことは、想像に難くない。レギュラーを外された中村自身、心に深い傷を負っていた。

 最初の頃は、悔しすぎて夜も眠れなかったという。

 中村が座る食事のテーブルには、楢崎、中澤、田中マルクス闘莉王、川口能活らが一緒に座っていた。

 川口は岡田監督から「第3GKで、チームのまとめ役として来てくれ」と言われ、考え抜いた末にメンバー入りを決断した。中村は、その役割を引き受けた川口を尊敬し、信頼していた。ベスト16入りした2002年W杯の、中山雅史や秋田豊の役割を果たすであろうことを、十分に承知していた。

 中村と一緒にテーブルにつく面々も、いろいろなことをグッと自らの胸に押し込めながら、自分たちに課せられた”戦い”と闘っていた。

「能活さんがいて、ボンバーがいて、ナラさん(楢崎)がいた。半端ないストレスを抱えるなか、特に大きかったのは能活さんの存在だった。

 能活さんは日本のために自分自身の身を削っていた。(自分は)ろうそくとなって、他人を明るく照らそうとした。犠牲心を持ってやれるか、という部分でお手本になってくれた。ほんと、助けられた」

 いよいよW杯が開幕。これから試合が続いていく。

 2006年ドイツW杯では、サブがまとまらず、初戦の敗戦をきっかけにしてチームが崩壊してしまった。中村は今回、そのサブに自分が置かれた。選手としてどう役割を果たすべきか、毎日考えていたという。

「(2004年の)アジアカップのときかな……、マツさん(松田直樹)が(試合に出ている選手に)タオルを絞って渡したりして、そういうのを見ていたんで、わりとサブとしてやるべきことは理解していた。マツさんを見ていなかったら、きっと何をしていいのかわからなくて、ストレスだけを抱えていたと思う」

 中村はどんなにつらくても、チームに反する態度だけは見せないようにした。大会を勝ち抜くには、自分たちのようなサブの選手の熱いサポートこそが大事――それは2002年、トルシエジャパンの映像からも垣間見ることができたし、ドイツW杯のときに実際に肌で感じて学んだことでもある。

 中村は、犠牲心を持ってチームを支える覚悟を決めた。



南アフリカW杯では、サポート役に徹していた中村俊輔

 W杯初戦のカメルーン戦の前には、中村たちサブ組は紅白戦で”仮想カメルーン”になって、レギュラーチームの相手になった。本気になってカメルーン選手の役を務め、「レギュラーの選手にもっとやらないといけない」と思わせるようなプレーをした。

 自分のポジションに入った松井に対しては、「憎いとか、そんな感情は一切なかった」という。逆に、カメルーン戦での給水時に声をかけた。

「松井、(相手の)左サイドバックは、大したことない。ぜんぜんイケるぞ。ゴリゴリいけよ!」

 そう中村に言われた松井は、大きく頷いてピッチに戻っていった。

 当時を思い出して中村は笑ったが、現に松井は本田の決勝ゴールにつながるアシストを決めた。中村は、それが自分のことのようにうれしかったという。

 そうして、劇的な本田の決勝ゴールで日本は勝利し、岡田監督は”賭け”に勝った。

「やったじゃん」

 中村は、ベンチにいた川口や楢崎と喜びを分かち合った。今までの苦しみが、ほんの少し報われた気がした。

(つづく)