遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(15) 鈴木優磨 前編秋田 豊の証言から読む>>「久しぶりの試合ということもあり、入り方が重要だ」 試合前日のトレーニング後、天皇杯2回戦Honda FC戦について語った大岩剛監督。JFL…
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(15)
鈴木優磨 前編
秋田 豊の証言から読む>>
「久しぶりの試合ということもあり、入り方が重要だ」
試合前日のトレーニング後、天皇杯2回戦Honda FC戦について語った大岩剛監督。JFL相手とはいえ、逆にカテゴリーの違う相手だからこその難しさを予想してのコメントだった。そして迎えた6月6日の試合。15分に先制点を許したものの、20分には安部裕葵(ひろき)が同点弾を決めると鈴木優磨が前半に2得点挙げる活躍を見せて、6-1と圧勝した。
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2015年9月12日、対ガンバ大阪戦。途中出場から終了間際にヘディングシュートでゴールを決めて、鮮烈なリーグデビュー戦を飾った鈴木優磨。
千葉県銚子市出身で、スクールに通い始めた小学1年生から、鹿島アントラーズの下部組織で育ってきた。プロ4シーズン目となる今季、前半はリーグ戦、ACLと合計22試合すべてに出場(4試合は途中出場)。得点数は合計6得点にとどまるものの、豊富な運動量と身体の強さ、そして気持ちを漲(みなぎ)らせるプレーでチームを牽引している。
ケガ人が多いなか、今季全試合出場を果たしている鈴木優磨
――アントラーズのスクールに通うきっかけは?
「幼稚園のころからサッカーをやってはいたんですけど、『アントラーズのスクールへ行ってみれば』と親から勧められて、毎週おじいちゃんに送り迎えしてもらいながら、通い始めたんです。最初の数年間は学校の少年団でもプレーをしていましたが、小4からは選抜されて、ジュニアチームに所属するようになって、そこからはずっとアントラーズですね」
――その当時、アントラーズやJリーグに対してはどんな思いを抱いていたのですか?
「最初のころの記憶は曖昧で、はっきり覚えているのは小3のころ。所属していたマルキーニョスが強烈で、大好きでしたね。あのころの鹿島は勝って当たり前という感じで、本当に強いチーム。その印象が強いですね」
――将来はアントラーズでプロデビューという夢は抱いていましたか?
「あまりなかったですね。自分がプロになれるというふうに思えなかったですから」
――意外ですね。
「小学生時代はまっすぐにサッカーやっていましたけど、ジュニアユース(中学)、ユース(高校)となるにしたがって、サッカー以外のことに気持ちが揺れたりして。ヤンチャな僕が道を外れそうになったとき、そのたびに鹿島のレジェンドと言われる人たちをはじめ、たくさんのコーチが軌道修正してくれたんです。奇抜な髪型にしたり、眉毛を剃ってみたりして、坊主頭にしろって何度も叱られました。休みの日は遅くまで遊んでいたりして」
――放課後は練習があるから、友だちとも遊べないですからね。
「サッカーは好きなんだけど、それ以外にも面白そうなことが増えてくるから(笑)。アントラーズは普段の生活態度に対しても厳しい。だから何度も『もう、サッカーをやめる』と言っていましたね」
――それでもやめなかったのは?
「やっぱりサッカーが好きというか、サッカーしかないんですよね。中3のときにクラブユースの予選で負けて、全国大会へ行けなかったんです。そのとき、1週間練習を休みました。『もうサッカーはいいや』とサッカーから離れたくて、コーチや家族にも休むと宣言したんです。気持ちが切れたというか、燃え尽き症候群みたいなものです。
でも、その1週間ずっと遊んでいたわけではなくて、数日経つと、サッカーをやっていないことにストレスを感じるようになったんです。遊んでいても罪悪感あるし、結局、サッカーが好きなんだな、サッカーしかないんだと思いました」
――最初からFWですか?
「小学生時代はいろいろやりましたよ。小5のときはCBもやりましたし。当時は身体も大きかったんです。でも、中学になると周りがどんどん身長が伸びるのに、僕はなかなか伸びなくて。身体の差を感じることもあったけれど、当時の僕はプレースタイルが今とまったく違うテクニシャンタイプだったから、それほど苦労することはありませんでした。ドリブルでゲームを作るような選手だったので。中3くらいから身長も伸びてきて、そこからはずっとFWをはじめとした攻撃的なポジションです」
――マルキーニョスから何を盗みましたか?
「マルキは相手DFに身体を当てるのが本当にうまいです。空中戦のときもボールじゃなくて、ギリギリまで相手を見ている。ボールは見ていないんです。相手を見ながら上手に身体を当てて、最後の最後でボールを見て、シュートを打つ。そのタイミングなどを学ぼうとしました」
――プロになる夢や目標はなかったと言っていましたが、高校生になってもその気持ちは変わらず?
「そうですね。7割くらいはなれないだろうと思っていました。ユースからトップに上がる選手が誰もいない代もありますし。それでも高2までは、チームの中ではイケイケだったんです。僕は地域トレセンとか、そういう選抜チームとも無縁だったから、鹿島の中しか知らなくて、裸の王様みたいなものでした。身内だけで、俺はすごいと思っているような選手だったんです。
だから、高3になる前にトップチームの宮崎キャンプに参加することになったときも、『まあ、やれるだろう』くらいに軽く考えていたんですよね。当時のユースの監督だった熊谷(浩二)さんは、そんな僕の気持ちもお見通しで、『トップへ行って厳しさを味わって、へし折られてこい』という感じで送り出されたんですが、その通りになりました。
ファーストプレーで植田(直通)くんにポンと吹っ飛ばされた。年齢的には2歳しか違わないけれど、2年プロでやっている人は違います。当時の監督はトニーニョ・セレーゾで練習も厳しくて。本当につらい2週間でした」
――熊谷監督の反応は?
「すごく喜んでいたと思います。そこから卒業までの1年間は、過去にないくらいもっとも努力しましたから」
――それはプロになりたいと思ったから?
「すべて、全部が全部、違いが凄すぎたんです。なにをしても、すぐに宮崎キャンプのことが脳裏によみがえるんですよ。プロになる、ならないじゃなくて、単純にもっとやらなくちゃまずいだろうって。何とかしなくちゃダメだ、ヤバイなという危機感が初めて生まれました。同時に開き直れた部分もあった。やれるところまでやるしかない。だったら、全力でやり尽くしてみようって」
――そういう努力の結果、トップの練習に参加することもあったでしょう?
「ありましたね。でも、正直行きたくなかったです。宮崎キャンプのことを思い出すから」
――しかし、見事トップ昇格が決まりましたね。
「たいていの選手は夏くらいまでには、昇格が決まるなかで、僕が決まったのは10月くらいでした。大学の練習会へ行ったりもしていましたし。本当に最後の最後ですね」
――うれしかったでしょう?
「実はそうでもなかったんです。昇格のことは熊谷監督から知らされたんですが、監督も『よく考えて、覚悟を決めろ』と言っていたし、僕自身もプロでやっていけるとは思えなかった。だから両親にも『俺がどんな決断をしても許してほしい』と言って、考える時間をもらったんです」
――それは、断ることも想定して?
「そうです。それくらいの衝撃を宮崎キャンプで味わったので」
――最終的に、トップ昇格を決断したのは?
「いろいろ考えました。でも、単純に考えてみようと思ったんです。やれるかやれないかは別にして、僕がなんのためにサッカーをやってきたのかって考えてみたときに、やっぱりプロになりたいからだろうという思いに至ったんです。だったら、今、目の前にそのチャンスがあるのだから、ここで挑戦するしかないだろうと自分で決めました。」
(つづく)