その街に住んだわけでもない。親戚がいるわけでもない。学校があって毎日通ったわけでもない。本来なら何のゆかりもない土地なの…
その街に住んだわけでもない。親戚がいるわけでもない。学校があって毎日通ったわけでもない。
本来なら何のゆかりもない土地なのに、なぜかよく行くことになり(しかも自分からの望んでいくわけでなく、不可抗力で、ということがほとんど)、馴染みの街になることがある。縁があるとでも言うべきか。
前回は長崎だった。
今回は、会津若松のことを書こうと思う。
会津若松には3度赴いている。
1度目は高校の修学旅行だった。
私の出身高校では、修学旅行は校外学習という位置づけになっており、メインイベントは磐梯山の登山である。高校自体は厳しい校風があるわけではなかったが(どちらかというと自由な校風)、なぜか「修学旅行ではない!」というところのみ、バランスの良くない厳しさがあった。
その三日目、班単位での自由行動は会津若松での散策だった。我々の班がどこをどう巡ったということはまったく記憶にないが、会津若松の駅の前で、電車に乗って喜多方ラーメンを食べに行こうとする男子と、それに女子が反対して揉めている班があったことだけ鮮明に覚えている。

2度目は、不可抗力の巡り合わせで会津若松に至った。
上京したての頃、まだ20代前半だった私は、若気の至りの一環で、真冬にふと思い立ち、夜中に車で新潟に向かった。日本海を見たくなったのだ。行きは特に問題なく翌朝に新潟に到着した。問題は帰りである。
日本海を見て、温泉に入って(瀬波温泉)、ガソリンを入れて、いざ帰ろうと車を飛ばす。しかし選んだ道が悪く、まるでスケートリンクのような、いや冬季オリンピック中継でも見たようなリュージュやスケルトンのコースのような状態になっていたのだ。いくらスピードを落としても、少しハンドルを切るタイミングを間違うだけでスピンしてしまう状況。何回かのスピンを乗り切った後、とうとう普通のカーブを曲がり切れず、雪の壁に突っ込んでしまった。
サスペンションが故障してしまったようで、まっすぐ走れない。仕方なくJAFを呼んだ。その場所が喜多方の手前だった。
JAFのトラックで喜多方の修理工場に連れて行ってもらった。修理には一週間ほどかかるとのこと。修理工場の軒先で途方に暮れていると、工場の親爺さんが「ここにいてもどうしようもないから、会津若松まで乗せてってやる」と車でひとっ走りしてもらった。こうした偶然が重なりあった2度目の会津若松だった。と言っても、会津若松の駅前から高速バスに乗っただけだが。
しかし、見知らぬ土地で右往左往したこともあり、ドッと疲れ、逆に記憶は強固なものになったようだ。駅前のロータリーの風景、駅舎の隣にあったドムドムバーガ―、高速バス乗り場など、細かいことがきれいに記憶の棚にしまい込まれている。

3度目は去年の旅行。
そこで初めて、会津若松に競輪場が在ったということを知った。
初めて名実ともに旅行ということで会津若松に赴いた私は、若松城に登った。天守閣の最上階から東西南北を見る。眼下の芝生に、戊辰戦争150年の図柄が描かれている。その先に野球場や体育館が見える。敷地内に運動施設が造られるのは、いろいろな城(上田城や沼田城など)に共通しているので、その際にはなんとも思わなかった。
会津若松から磐越西線に乗って郡山に向かいつつ帰路についた。郡山で新幹線に乗り換えである。待ち時間に郡山駅内で、「郡山駅の歴史写真展」という簡易的なブースでやられている写真展を見ていると、昔の郡山駅前の写真が展示されている。駅前の看板が大写しになっており、そこには「会津競輪」「平競輪」の文字が。
「えっ、会津に競輪場が?」

ポケットからスマホを取り出す。調べると、若松城の本丸跡に333mバンクがあったようで、今は鶴ヶ城体育館になっている(鶴ヶ城=若松城)。さっき若松城から見た体育館は、元々は競輪場だった。色褪せた写真をもう一度見る。経った時間の長さが分かる。
約150年前、若松城で激戦があったことは、歴史の教科書やNHKの大河ドラマで知っている。そこからずっと後に、若松城の跡地で競輪選手たちが激戦を繰り広げていた。その光景が150年の間に十数年だけ挟みこまれている。
Text・Photo/Go Otani