【第34回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」 全日本プロレスと業務提携した後も、AWAを率いるバーン・ガニアは国際プロレスのリングに立ち続けた。アニマル浜口は「国際プロレスの吉原功(よしはら・いさお)社長との深い絆(きずな…

【第34回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 全日本プロレスと業務提携した後も、AWAを率いるバーン・ガニアは国際プロレスのリングに立ち続けた。アニマル浜口は「国際プロレスの吉原功(よしはら・いさお)社長との深い絆(きずな)を感じる」と振り返る。吉原社長とガニア、ふたりの共通点とは?

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1981年にはジャイアント馬場とタイトルマッチを行なったバーン・ガニア

「AWAの帝王」バーン・ガニア(2)

「人間風車」ビル・ロビンソンと「AWAの帝王」バーン・ガニアの黄金カードが1974年11月20日、東京・蔵前国技館にて行なわれた。

 1本目は20分48秒、ガニアがスリーパーホールドで先制。すると2本目は15分21秒、ロビンソンがワンハンド・バックブリーカーで獲り返す。そして3本目は、両者タックルの相打ちでダブルKOとなり痛み分け。結果、ガニアの王座防衛で幕を下ろしたのだが、「史上最高の外国人対決」と称されたこの試合は国際プロレスだけでなく、日本プロレス界の名勝負として今も上位にランキングされている。

「(この試合は)得意技や必殺技の応酬でね。息つく暇もない熱戦でした。試合が終わると、観客全員がスタンディングオベーション。あの熱狂は今でも思い出しますね」

 国際プロレスとの契約が切れた1975年以降、AWAは全日本プロレスと提携。ガニアは1976年3月10日に東京・両国日大講堂で行なわれた「ジャンボ鶴田試練の十番勝負・第一戦」に出場した。さらに1981年1月18日には東京・後楽園ホールの「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」で、PWF世界ヘビー級王座を保持する馬場と自身のAWA世界ヘビー級王座をかけて対戦し、3本勝負の結果、引き分けている。

 だが奇妙なことに、その全日本に参戦中もガニアはニック・ボックウィンクルなどを引き連れ、国際プロレスにスポット参戦していた。1980年3月31日には、国際プロレスのリングに上がるようになったばかりの大木金太郎がニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。

「吉原社長とガニアは相当深い絆(きずな)で結ばれていたんでしょうね。国際プロレスはTBSの中継が終わってしまい、ようやく東京12チャンネルの月曜夜8時からの中継がスタートして2ヵ月目。そんな一番大事なときに、ガニアとロビンソンの黄金カードが国際プロレスで実現できたわけですし。国際プロレスとAWAの団体同士のビジネスが終わってからも、ガニア自ら、そして彼の率いるトップレスラーたちが国際プロレスのリングに上がってくれたのですから」

 ガニアはジャイアント馬場と戦った4ヵ月後、AWA世界ヘビー級チャンピオンのまま引退する。以後は団体の経営に勤(いそ)しみ、1980年代後半からは新日本プロレスと提携したが、次第に他団体の勢いに押されて1991年、AWAは崩壊。ガニアはプロレス界から離れることになり、そして2015年4月27日、死去が伝えられた。

「亡くなられたのは89歳ですか。吉原社長やラッシャー木村さん、グレート草津さん、ジャイアント馬場さんらと比べて、身体を酷使してきたプロレスラーとしては大往生ですかね。晩年、認知症を患っても、最期は娘さんたちと暮らしていたそうですし。

 ガニアはトップレスラー兼プロモーター。自身が現役の間はAWAの会長職を他の人に務めさせていましたが、事実上のオーナーでしたよね。引退後は経営に専念されていたようで。一方、吉原社長は現役を引退し、日本プロレスで取締役営業部長をされた後、国際プロレスを立ち上げた。おふたりは立場こそ違いますけど、僕はお互い共通するところがいくつもあるなと思うんです。

 吉原社長はそれまでアメリカ一辺倒だった日本のプロレス界で、苦労されてヨーロッパルートを新たに開拓された。ガニアも社長が連れてきたモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)やビル・ロビンソンをアメリカに引っ張り、ヨーロッパ出身のレスラーがアメリカやカナダのリングで活躍する道を切り拓いた。

 社長は(カール・)ゴッチさんやロビンソンに頼んで僕たち若手を鍛えさせ、プロレスラーとして一人前に育ててくれましたが、ガニアもハルク・ホーガンやロード・ウォリアーズらをメジャーにする一方、自前のプロレスラー養成キャンプをつくってロビンソンがリック・フレアーやリッキー・スティムボートなどを指導し、後にNWAやWWFのチャンピオンへと成長させた。

 もともと、おふたりともアマチュアレスリング出身。レスリングの基本を大事にされていましたし、しっかりしたテクニックのある選手が好きでした。

 そして何と言っても、おふたりは巨大な勢力に挑んでいった。吉原社長は日本プロレスに始まり、ジャイアント馬場さんの全日本プロレス、アントニオ猪木さんの新日本プロレス。一方でガニアは、全米一の勢力を誇るNWAと。

 国際プロレスが1966年に旗揚げし、1981年に解散。AWAは1960年にガニアが設立し、崩壊したのが1991年ですから、倍ほどの歴史があったんですね」

(つづく)
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