投げては100マイル(約161キロ)超えを連発し、打っては本拠地デビュー戦から3試合連続の本塁打――。大谷翔平選手…
投げては100マイル(約161キロ)超えを連発し、打っては本拠地デビュー戦から3試合連続の本塁打――。大谷翔平選手の活躍ぶりは地元ロサンゼルスだけでなく、早くも全米中を巻き込んで大きな話題となっています。

可愛らしい笑顔もあいまって一躍人気者となった大谷翔平
メジャーの長い歴史のなかでも、大谷選手級の衝撃的なデビューはどれほどあったでしょうか。今回は個人的に印象に残っているメジャーリーガーのデビューを取り上げたいと思います。
まず、古い順に振り返っていくと、やはりフェルナンド・バレンズエラの実質的なデビュー時を思い出します。メキシコの片田舎で12人きょうだいの末っ子として生まれたバレンズエラは、貧困生活から抜け出すために15歳のときにメキシカンリーグのチームと契約しました。そして1979年、ロサンゼルス・ドジャースのスカウトの目にとまり、メキシコを離れてアメリカ行きを決意します。
しばらくマイナー生活を送ったのち、1980年9月に19歳でメジャーデビュー。ただ、その年は10試合ほどにリリーフで登板しただけで、バレンズエラの存在を知る人はほとんどいませんでした。
しかし1981年、開幕前日に予想外のパプニングが起こります。当時ドジャースのエースだったジェリー・ロイスが急に故障を訴え、開幕投手のポジションがポッカリと空いてしまったのです。その緊急事態を救ったのが、前日練習でバッティング投手を務めていたバレンズエラでした。まさかの急展開で急遽、開幕投手に大抜擢されることになったのです。
そして迎えたヒューストン・アストロズとの開幕戦。バレンズエラは堂々としたピッチングでアストロズ打線を5安打に抑え込み、見事に完封勝利を飾りました。その後もバレンズエラの勢いは収まらず、開幕から破竹の8連勝をマーク。スクリューボールを巧みに織り交ぜたベテラン顔負けの投球術で、一躍ドジャースで先発の柱となったのです。
その8連勝の内容を見ると、デビュー時の衝撃がよくわかります。8試合のうち7試合で完投し、しかも5試合が完封勝利。並み居るスラッガーに臆することなく凡打の山を築き、なんと防御率0.50という無敵のピッチングを披露しました。
ずんぐりむっくりな体格、茶目っ気たっぷりの動作、そして英語がほとんど話せないなど、さまざまな魅力も重なって、バレンズエラの人気は沸騰します。特に地元ロサンゼルスはメキシコ系住民が多いので、熱狂的なファンが生まれて「フェルナンドマニア」という愛称で呼ばれました。このときの盛り上がり方は、まさに今年の大谷選手と非常に似ています。
日本でも当時、その大フィーバーぶりが雑誌などで取り上げられていました。バレンズエラのことを「怪童」や「メキシコの金太郎」と紹介されていたのを覚えています。
その年はストライキの影響で2ヵ月間もシーズンが中断したにもかかわらず、最終的に13勝7敗・防御率2.48、メジャー最多の180奪三振をマークしました。また、プレーオフでも2勝を挙げ、ワールドシリーズでもニューヨーク・ヤンキース相手に完投勝利。ドジャース世界一の原動力となり、史上初となる新人王とサイ・ヤング賞のダブル受賞という快挙を成し遂げました。
そのバレンズエラの衝撃から14年後、同じドジャースから野茂英雄投手がメジャーデビューします。その活躍ぶりはみなさんご存知だと思いますが、個人的に一番驚いたのは、全米のどこの空港に行っても必ず野茂投手のグッズが売っていたことです。いくら人気が全国区になっても、アメリカは広いのでショップでは地元チームの選手のグッズしか取り扱っていないのが当然なのに、それを見たときは本当にびっくりしました。
次に衝撃デビューで思い出す選手といえば、1984年のドワイト・グッデンです。高校時代から剛速球で名を馳せていたグッデンは、1982年のドラフト1巡目・全体5位でニューヨーク・メッツに入団しました。その周囲の期待に応えるように、1983年にはマイナーのシングルAで191イニングを投げて300奪三振をマーク。圧巻の数字にメジャー関係者も度肝を抜かれました。
そして1984年、満を持してメジャーデビュー。当時19歳ながら速球とカーブだけで三振の山を築き、「ドクターK」の異名を授けられます。当時のメッツの本拠地シェイスタジアムには「Kボード」が掲げられるようになり、これがブームとなって全米各地のスタジアムでも見られるようになりました。
最終的にグッデンはナ・リーグ3位の17勝(9敗)、同2位の防御率2.60、そしてリーグトップで新人記録の276奪三振。文句なしで新人王に輝きました。また翌年の成績はさらに驚愕で、24勝4敗・防御率1.53・268奪三振。投手3冠に輝き、サイ・ヤング賞も受賞しています。
1990年代に入って強烈に衝撃を受けたのは、ケリー・ウッドではないでしょうか。「史上最高の速球投手」ノーラン・ライアンに憧れて野球を始めたテキサス出身のウッドは、高校時代から豪腕で鳴らした若手有望株でした。1995年、ドラフト1巡目・全体4位でシカゴ・カブスに入団。ライアンと同じ背番号34を背負い、1998年に20歳でメジャーデビューします。
すると、デビューから先発5試合目のアストロズ戦。ウッドはとんでもない記録を叩き出したのです。序盤から三振の山を築き、終わってみれば1試合20奪三振の大台を突破。同じテキサス州出身で「ロケット」の異名を持つロジャー・クレメンスが打ち立てた金字塔に並ぶ快挙を成し遂げました。
その後もウッドは快投を続け、8月までに13勝をマーク。9月に右ひじを痛めて戦線離脱したものの、リーグ3位の223個もの三振を奪い、当時史上最高の1試合平均12.58奪三振を記録しています。
最後に近年もっとも大谷選手級の衝撃だったと思うのは、やはりスティーブン・ストラスバーグのデビューでしょう。その衝撃度でいうと、私が見てきたなかで一番かもしれません。
2008年、サンディエゴ州立大学時代に、北京五輪アメリカ代表チームにアマチュア選手として唯一選出されたストラスバーグは、2009年のドラフト全体1位でワシントン・ナショナルズに指名されて入団。1965年に始まったドラフト制度の長い歴史において、ストラスバーグは「最高のプロスペクト(若手有望株)」と称されました。実際、その能力を評価されてドラフト史上最高の4年総額1510万ドル(約16億5000万円)という超破格の金額で契約しています。
そして2010年6月8日、ピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャーデビューを果たしたときは、大谷選手のときと同じように、ストラスバーグのTシャツが球場で飛ぶように売れました。本拠地ナショナルズパークのスタンド全体がすべて背番号37で埋まったほどです。いつもは1万5000人程度の観客人数ですが、そのデビュー戦では4万人分のチケットが完売。ファンがひと目見ようと球場に詰めかけました。
その期待に応えるべく、ストラスバーグはデビュー戦を華々しく飾ります。パイレーツ打線を4安打に封じ込み、14個もの三振を奪ってメジャー初勝利。デビュー戦で「14奪三振・無四球」というメジャー史上初の快挙も成し遂げました。
また、ピッチングの内容も圧巻で、94球中36球が時速98マイル(約158キロ)以上をマークし、そのうち2球が100マイル(約161キロ)を突破。カーブも25球投げたうち18球がストライクと、制球力も抜群で全米中が大騒ぎになったのを覚えています。
その後もストラスバーグの快投は止まりません。デビュー戦から4試合の先発で合計41個もの三振を奪い、あっさりとメジャー記録を更新しました。ストラスバーグの奪三振ショーは見る者を魅了し、彼が先発する試合にはファンが殺到したのです。全米中を巻き込んだ大フィーバーとは、まさにこういうことを言うのでしょう。
野茂投手やイチロー選手などの衝撃デビューは、みなさんご存知だと思いますので今回は割愛しました。大谷選手の衝撃デビューも今後、ファンの間で語り継がれていくでしょう。この先、さらに彼がどんな歴史を作っていくのか、非常に楽しみです。
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