すでに試合が終わったというのに、一塁側ベンチ前の円陣はしばらく解けることがなかった。 円陣の奥から低音の声が聞こえ…

 すでに試合が終わったというのに、一塁側ベンチ前の円陣はしばらく解けることがなかった。

 円陣の奥から低音の声が聞こえてくる。具体的な内容は聞き取れないが、その言葉に怒気がはらんでいることは十分に伝わってきた。

 ようやくベンチ前の輪が解けると、背番号30がベンチから出てきた。

「こんなに怒ったのは、監督になってから初めてですよ」

 監督の名前は平井光親(みつちか)。1990年代にプロ野球のロッテで活躍した好打者だ。2017年から愛知工業大の監督を務めている。



昨年から母校・愛知工業大の指揮を執る平井光親監督(写真左)

 この日、愛知工業大のグラウンドで愛知大学野球2部リーグの公式戦が組まれていた。愛知工業大は名古屋産業大に1対5と完敗。これでリーグ戦成績は1勝3敗となり、愛知工業大は早くも2部優勝戦線から脱落しつつあった。

 1985年、86年には2年連続で明治神宮大会決勝戦に進出し、86年には日本一に輝いた愛知工業大だが、近年は2部リーグに低迷している。復活への切り札として呼ばれたのが、OBの平井監督だった。

 この日、平井監督のことを連盟関係者や他大学の監督に聞いてみると、みなこう口を揃えた。

「なにしろ、プロで首位打者を獲ったほどの人ですからね」

 平井監督にとって、「首位打者」はなくては語れない枕詞(まくらことば)のようなものだ。

 そして、時にはこんな情報も補足される。”送りバントで首位打者を確定させた男”と。

 88年にドラフト6位でロッテ入りした平井光親は、入団3年目の91年シーズン途中からレギュラーに定着する。シュアな打撃で結果を残し、当時の金田正一監督に抜擢されたのだ。

「5月くらいからレギュラーになりましたけど、最初はマスコミも誰からも注目されていなかったんですけどね……」

 だが、シーズンも終盤にさしかかると、平井の周辺がにわかに騒がしくなる。規定打席に到達し、リーディングヒッター争いの先頭集団に平井の名前が現れたのだ。

 この年、パ・リーグの規定打席到達者で打率3割を超えたのはわずか5人しかいなかった。松永浩美(オリックス)、白井一幸(日本ハム)、佐々木誠(ダイエー)、ブーマー(オリックス)、そうそうたる面々にレギュラー1年目の平井が紛れ込む。そして、最後は球界を代表するスイッチヒッターの松永との一騎打ちで、平井は首位打者争いの渦中に飲み込まれていった。

 先に全日程を終了したのは松永だった。松永の最終的な打率は.3140。そして平井は残り3試合というところで打率.3162と松永をわずかに上回っていた。平井はこの時点で年間400打席に立っており、当時のシーズン規定打席(403)まで残り3打席に迫っていた。この3打席すべてに凡退すると松永の打率を下回ってしまう。

 平井監督は当時をこのように振り返る。

「マスコミに騒がれるまでは誰も気づきもしませんでしたが、ここまでくると金田監督をはじめ、みんなの『平井に首位打者を獲らせよう!』という雰囲気を感じましたね」

 しかし、決着は思わぬ形でついた。運命の一戦、初回に1番・西村徳文が出塁すると、2番の平井が送りバントを決める。この瞬間、残り2打席で平井が凡退しても打率は.3144となり、松永を下回ることはなくなった。つまり、送りバントを決めた瞬間に平井の首位打者は決まったのだ。

 松永がシーズン130試合568打席に出場したのに対し、平井は110試合403打席。年間111安打でのタイトル獲得に批判の声もあった。しかし、平井は「イヤな思いをしたことはそんなになかったですね」と振り返る。

 翌92年以降、平井の成績は低迷する。本人としては「腰痛などケガが多かった」と語るが、当時は平井のことを一度首位打者になっただけの「一発屋」と揶揄(やゆ)する声もあった。

 しかし、98年に平井は再び輝きを取り戻す。前半戦から安打を量産し、高打率をキープした。

「近藤昭仁監督に1番打者として使ってもらったのがよかったんじゃないですかね。1番打者は『よーいドン!』で気楽に打席に立てて、性に合っていたような気がします。当時はそこまで考えていませんでしたが(笑)」

 後半戦に故障をして数字を落としたものの、最終的には打率.320と自己最高アベレージをマーク。オリックスのイチローが.358とずば抜けた数字を残したため7年ぶりの首位打者こそ逃したものの、その実力がフロックではないことを証明してみせた。

 あれから20年――。

 大学野球の監督となり2年目を迎えた平井監督の胸中に広がっているのは、学生へのもどかしさだった。

「僕が大学生の頃よりも、たくさん練習していますよ。環境だって、室内練習場はあるし、ブルペンも新しく作ってもらって、学内に寮もある。雨が降ったら練習ができないチームだってあるのに……。そう考えるともどかしいですよね」

 今春は大黒柱になってくれるはずと期待していた投手が開幕戦で初回につかまり、わずか3分の1、8失点の大炎上で降板。その試合を落とし、勢いに乗れないままシーズンが進んでいた。

 打線でカバーしたいところだが、「低めの球を狙おう」と指示を出せば高めの球を打ち上げ、「ファーストストライクを振ろう」と言えば2ストライクまで見逃して最後は打たされる。「僕の教え方が悪いのかもしれないけど……」と、平井監督の苦悩は深い。

 現役時代、ファーストストライクから積極的にスイングしてヒットを重ねてきた打者だからこそ、選手たちへの苛立ち、自身への情けなさも倍増する。

「学生たちにはレベルを下げて話しているつもりなんです。それでもできない……」

 名古屋産業大に敗れた試合後、グラウンドにはすぐにケージが運び込まれ、打撃練習が始まった。今年取り組んでいるテーマは「アウトコース」だという。

「外のボールをしっかりと強く振り切れるようになりなさいと言っています。去年はそこを打たされて、自分のスイングができないままでしたから」

 プロで首位打者になってよかったことはあるか平井監督に聞くと、吐き捨てるように「でも5安打ですよ?」と返ってきた。その日、愛知工業大が放ったヒットの本数だ。もはや過去の勲章など平井監督の眼中にない。

「現役だった34~35歳の頃から、『いつかは大学で監督をやりたい』という思いがあったんです。プロの監督なんて僕の実績では無理じゃないですか(笑)。それに、自分の大学時代がすごく楽しかったんですよ。チームも強かったしね。今の選手たちにもその思いを味わってほしいんです」

 取材翌日、愛知工業大は前日の2倍、10安打を放って5対2と名古屋産業大に雪辱した。

 元プロ監督、ましてやタイトル経験者ともなれば、いやが上にも期待のハードルは高くなってしまう。だが、平井監督の監督生活はまだ始まったばかりだ。

 送りバントで首位打者を確定させるという数奇な体験をした男の野球人生は、母校を頂点へと導くという第二の挑戦へと続いていく。