【第32回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 アメリカ進出で大成功を収め、世界のトップレスラーまで上り詰めたモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)。その足がかりとなったのは、国際プロレスでの活躍だった。アニマル浜口が今も鮮明に覚えているという、アンドレ・ザ・ジャイアントの試合とは――。

「国際プロレスとはなんだ?」前回コラムはこちら>>>

連載第1回目から読む>>>



トップロープをまたいでリングに上がるアンドレ・ザ・ジャイアント

「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアント(2)

「ロシモフがアメリカに渡ったのは、1970年に来日したとき、同時期に日本にいたバーン・ガニアに認められたのがキッカケです。AWAのプロモーターでもあったガニアが『コレは!』と思ったんでしょう。ガニアはフランス系で、英語だけでなくフランス語もペラペラでしたしね。

(第3回IWAワールド・シリーズで)カール・ゴッチさんからフォールを奪ったというのも大金星でしょう。ロシモフは相当な自信をつけて、アメリカへ渡ったんじゃないですか。

 でも、ロシモフは自分を日本に呼んでくれて、アメリカへ進出するキッカケも作ってくれた吉原(功/よしはら・いさお)社長を尊敬し、ずっと恩義を感じていましたよ」

 アンドレ・ザ・ジャイアントは自著『アンドレ・ザ・ジャイアントの俺こそ・ザ・ワールド』(訳・新間寿/講談社)で『俺が今までに出会った強力なポリシーを持った人』として、「生涯を反NWAにかけた男~AWAの帝王」バーン・ガニア、「燃えるバイタリティーに満ちたマネージャー」フランク・バロアとともに、国際プロレス吉原功社長の名を挙げている。また、同書には『ミスター吉原のおかげで、俺は世界の檜舞台への切符を掴んだ』と書かれている。

 1973年にAWAを離れてWWFと契約したことにより、1974年からは新日本プロレスのリングに上がるようになってアントニオ猪木と抗争を開始。1976年10月7日には東京・蔵前国技館で「格闘技世界一決定戦」を行なうなど、五分と五分の戦いを繰り広げた。グラウンドで猪木がアンドレのぶっ太い腕にキーロックをかけたものの、そのままの体勢でアンドレが立ち上がって猪木を軽々と持ち上げたシーンは、今も脳裏に焼きついているファンも多いだろう。

 そうしたなかでも、1974年6月、そして1979年7月と、アンドレは国際プロレスに特別参加している。

「ロシモフは国際プロレスが好きだったんでしょうね。(マイティ)井上さんとも本当に仲がよかったですし。井上さんが心配してロシモフに言ったそうですよ。『国際プロレスの試合に出て、WWFとの契約は大丈夫なのか? 昔と違ってギャラも高くなっただろうが、うちはそんなに払えないぞ』とね。

 すると、ロシモフは『金はいくらでもいいんだ』と答えたそうです。ロシモフは男気のある、本当にいいヤツですよね。

 僕が一番、心に残っているロシモフの試合は、新日本プロレスに移ってからですけど、1981年9月23日に東京・田園コロシアムで行なわれたスタン・ハンセンとの一戦。国際プロレスが崩壊し、僕とラッシャー木村さんが新日本プロレスに殴り込みをかけた、木村さんのあの『こんばんは事件』があったときです。

 僕たちはメインイベント前にマットに上がり、敵の大将・アントニオ猪木さんに挑戦を表明したわけですが、その前の試合がロシモフとハンセンのスーパーヘビー級の激突でした。

 前にも話しましたが、空前絶後のド迫力マッチ。会場は異常な熱気に包まれました。僕たちは圧倒されて、言葉もないままマットを見つめていましたが……ふと我に返ると、気づいたんです。世界中のプロレスラーのトップに立つロシモフとハンセンが戦うなんて、アメリカでもそうそうない。それをマッチメイクする新日本プロレスの、そのすごさを。

 でも、『ここでひるんでいるわけにはいかない。俺たちはこの巨大な戦艦にたった3人(ラッシャー木村、寺西勇、アニマル浜口)で立ち向かい、国際プロレス魂を見せるんだ。敵の大将の首を取ってやるんだ』と、心のなかで叫びました」

 1986年以降、アンドレは日本から遠ざかっていたが、1990年4月13日に東京ドームで行なわれた「日米レスリングサミット」でジャイアント馬場と”大巨人コンビ”を結成。その後も全日本プロレスで戦い、1992年10月21日の日本武道館で行なわれた「全日本プロレス創立20周年記念試合」では、ジャイアント馬場&スタン・ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアvs.ジャンボ鶴田&アンドレ・ザ・ジャイアント&テリー・ゴディという「夢の6メンタッグ」も実現。そして晩年は馬場、ラッシャー木村らの”ファミリー軍団”にも加わった。

 国際プロレスから始まり、新日本プロレス、そして全日本プロレスと、アンドレは長く日本のプロレスファンに愛され続けたが、父親の葬儀のためにフランス帰国中の1993年1月27日、パリのホテルにて亡くなった。死因は急性心不全、享年46歳。

「大巨人」「現代のガリバー」「不世出のモンスター」「100万ドルの怪物」などと評され、カナダ進出時には「世界8番目の不思議」と呼ばれた。新日本プロレス時代には実況アナウンサーの古舘伊知郎が「巨大なる人間山脈」「ひとり民族大移動」「都市型破壊怪獣ゴジラ」と絶叫したアンドレ・ザ・ジャイアント――。

「ジャイアントプレス」と呼ばれたボディプレス、ジャイアント馬場の十六文キックに対抗して「十八文キック」と名付けられたカウンターキック、さらにはヒップドロップやヒッププッシュなど、それらの得意技は他のレスラーなら単なるつなぎ技に過ぎないが、アンドレの超人的なパワーをもってすれば一撃必殺のフィニッシュ技だった。

「早すぎますよね、46歳で亡くなるなんて。もっともっと観たかった。リングに上がっただけで、一瞬にしてすべての観客を虜(とりこ)にするレスラーなんていませんよ。もう二度と、あんなレスラーは現れないでしょう。今もビールやワインを呑みまくっているのかな。天国の酒屋さんは大繁盛ですね。ご冥福をお祈りします」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

連載第1回から読む>>>