それは突然の告白だった。 成田空港での囲み取材。優勝賞金15万ドル(約1600万円)の使い道を聞かれた川内優輝(31歳・埼玉県庁)はこう答えたのだ。「来年の4月から公務員をやめて、プロランナーに転向しようと思っていますので、そちらの資…

 それは突然の告白だった。

 成田空港での囲み取材。優勝賞金15万ドル(約1600万円)の使い道を聞かれた川内優輝(31歳・埼玉県庁)はこう答えたのだ。

「来年の4月から公務員をやめて、プロランナーに転向しようと思っていますので、そちらの資金にしたいと考えています」

 集まったメディアの顔色が一気に変わるほど、インパクトのある言葉だった。川内は世界最古の伝統を誇るボストンマラソン(以下、ボストン)で、昨夏のロンドン世界選手権で金メダルに輝いたジョフリー・キルイ(ケニア)ら世界の強豪を撃破。日本人として瀬古利彦以来31年ぶりとなる優勝を飾り、日米で大きな話題をさらった。



ボストンマラソンで優勝し、プロ転向を表明した川内優輝

 そして、長いフライトの間に川内は、空港で語るべきことを考えていたのだろう。早口で話すことの多い川内が、この日は落ち着いていた。

「昨夏のロンドン世界選手権で、自分自身、公務員と両立しながらやれることはやってきたつもりですが、あと一歩で入賞に届きませんでした。自己ベストも5年間更新していません。私は頼まれたサインには、『現状打破』と書いているんですけど、自己矛盾を感じていたんです。自分は『現状維持』ではないか、と。

 仕事を優先しないといけないことを考えると、これまでは挑戦できない部分がありました。私がトップランナーとして世界中を回れるのは、あと10年もない。もしかしたら5年もないかもしれません。あの時プロになっておけばよかったと後悔するのは嫌だと思いました。自分が公務員としてやりたかった埼玉国際マラソンの実現もできましたし、今後何をやりたいのか考えた時に、『マラソンで世界と戦いたい』という思いが強く、このような決意に至りました」

 プロへの転向は昨夏ぐらいから考えていたというが、弟・鮮輝(よしき)が会社員をやめてプロランナーとして活動する中で、自己ベストを大幅に更新したことにも触発されたという。そして、今回のボストンでの快挙が川内に大きな決断をもたらした。

 というのも、ボストンの優勝賞金15万ドル(約1600万円)が当面の活動費になるだけでなく、世界最高峰のレースを制したことで、「YUKI KAWAUCHI」という日本人ランナーの”価値”が急上昇したからだ。

 そこで、川内がプロランナーとしてリスタートを切ることで、どんな活躍ができるのか。その可能性を探ってみたい。

 まずは川内が心配していた収入面。公務員規定でこれまで受け取ることができなかった「出場料」だけでも、十分な活動資金を得ることができる。出場料は世界のトップクラスともなれば、ロンドン、ベルリンなどのメジャー大会と複数年契約を結ぶことで数千万円のお金が動く。

 ボストン王者となった川内にも相応の出場料(大会の規模によるが数百万円ほど)が期待できるだろう。しかも、川内の場合は連戦が可能。昨年1年間だけで11のフルマラソンに参戦しており、出場料だけで数千万円を稼ぐのは確実だ。加えて、順位やタイムなどから発生する賞金も手にすることができる。

 ただ本人は、「お金のために走るわけではありません。自分自身の可能性を試したい。そのためにプロになります。お金はあまり気にせず、生きていければいい」と話している。スポンサー集めに奔走する気もないようだが、活躍次第では”ビッグマネー”をつかむチャンスは十分にある。

 次はタイム短縮について。川内の自己ベストは、2013年3月のソウル国際でマークした2時間8分14秒。2時間9分切りは3回達成しているものの、この5年間は2時間9分台にとどまっている。川内自身も、「純粋なタイム勝負では、設楽(悠太・Honda)君、井上(大仁・MHPS)君よりも、私のほうが劣っていると思っています」と、スピード不足を実感している。

 来年4月に32歳になることを考えると、今からスピードを強化することは簡単ではない。しかし、これまで取り組んでこなかったトレーニングをこなすことで、新たな能力を手にすることができるかもしれない。日本記録(2時間6分11秒)の更新についても、「可能性があれば、もちろん挑戦していきたい」と川内。世界の強豪と勝負するには、設楽や井上に勝てないようではいけないと思っているのだろう。

 最後に、2020年東京五輪についてはどうなのか。川内は暑さが苦手ということもあり、すでに「日本代表」からの引退を表明している。「日本代表にはこだわらず、世界各地のレースで戦いたい」という考えは変わっていない。ただし、公務員を退職して、時間的な制限がなくなることで風向きが変わる可能性もあると見ているようだ。

「現時点では、暑さ対策や長期合宿ができないので、東京五輪を狙うという意欲は沸いてきません。夏場は暑さの中での練習で調子を落としてしまうことが多かったんですけど、高冷地で合宿ができるようになれば、自分も変われるのではという期待もあります。その時は自信を持って挑戦したいと思っています」

 これまで数々のレースでドラマを見せてきた川内。フルタイムで勤務するからこそ到達した、「独自のトレーニング」や「マネジメント術」で彼はここまで強くなった。出場するレースでは常に「全力」を出し切り、勝負をかけるレースでは自費でコースを下見して攻略法を考えるなど、公務員ランナー時代から”プロフェッショナルな走り”を見せてきた。そんな選手が本物のプロランナーになることで、どんな進化を遂げるのか。

「公務員」という肩書きがなくなることで、失うものもある。時間があることは、必ずしもプラスに作用するとは限らない。しかし、プロランナーになることで川内の可能性が広がることは確かだろう。2019年春に向けて、我々も川内優輝の新たなるキャッチコピーを考えないといけない。