プロ野球チームには4億円以上を稼ぐ選手もいれば、1000万円に満たない年俸の選手もいる。それぞれが力を合わせて、リ…
プロ野球チームには4億円以上を稼ぐ選手もいれば、1000万円に満たない年俸の選手もいる。それぞれが力を合わせて、リーグ優勝を目指して戦うのがプロの世界なのだ。
「ポスト古田」と期待されながらレギュラーをつかめなかった米野智人が出会ったプロ野球の1億円プレーヤーの素顔とは? そして、スターとしてスポットライトが当たるわけではない地味な選手たちのマネー事情は?
“第二の捕手”としてプロ野球で生きてきた男が語るプロ野球選手とお金の話!

2002年、一軍で捕手としてチャンスを得た米野智人(右)
──米野さんは1999年ドラフト3位で北照高校(北海道)から東京ヤクルトスワローズに入団しました。
米野 「松坂世代」の次の年です。ドラフトの同期は桐生一(群馬)で日本一になった正田樹ですね。去年、福岡ソフトバンクホークスにいた川﨑宗則もそうです。
──当時、スワローズには古田敦也さんがいました。日本を代表するキャッチャーのいるチームに指名されたことについて、どう思いましたか?
米野 もちろん、偉大な選手だということは知っていました。正直、自分がポジションを奪えるとは思えませんでした。
──古田さんは2006年に選手兼監督になるまで、ずっと正捕手の座を渡しませんでした。チームに勝利をもたらすキャッチャーであり、打っても2000安打を打つ強打者でした。
米野 僕にとってはものすごく高い壁でした。ただ、近くでプレーできていろいろと勉強になりましたね。
──米野さんが入団するときの契約金は推定で7500万円。3位指名の高校生ルーキーとしては破格の金額じゃないですか? これは「ポスト古田」として期待されていたんですね。
米野 当時は高校生のドラフト1位がもらえる金額が8000万円くらいでしたから、それと同等の評価をしていただいたんだと思います。
──1年目の年俸が推定700万円でしたから、球団からすれば「2、3年ファームで頑張って、一軍に上がってこい」ということですね。
米野 そうですね。高校からプロに入ってきて、レベルが違うことがすぐにわかりました。「いったい、いつ一軍で試合に出られるんだろう」と思ったほど。二軍でも相当レベルが高かったですから。
──キャッチャーは特に覚えることが多くて大変ですよね?
米野 配球やキャッチング、サインプレーなど勉強することがたくさんあります。ピッチャーごとに投球のサインが違うので、それを覚えるだけでもひと苦労でした。試合になるとどうしても焦るので、やっぱり大変でしたね。
──米野さんがプロに入ってからも自信を持っていたことは?
米野 僕は肩の強さを評価されてプロに入ったと思っていました。肩だけには自信があって、もしかしたらチームの中で一番じゃないかなと。
──プロのピッチャーで「この人のボールはすごすぎて捕れない」と思ったことはありませんか?
米野 今、スワローズの一軍投手コーチをしている石井弘寿さんです。あのスライダーは衝撃でした。ほかのピッチャーとは全然軌道が違っていて、本当に捕れませんでした。 簡単に言ったら、見えない壁にぶつかってそのまま跳ね返ってくる感じ。曲がったあともスピードが落ちない。曲がり幅も大きくて怖かった……。受けるのが難しいくらいですから、バッターが打つのはもっと難しいですよね。
──ほかには?
米野 五十嵐亮太さん(現福岡ソフトバンクホークス)はストレートも速かったけど、フォークがすごかった。
──ブルペンでキャッチャーが捕球する時の音が悪いと、ムッとする人はいましたか?
米野 たまにいましたね……いや、よくいます(笑)。ピッチャーは自分のボールが最高だと思いたい人たちなので。いいボールがきているのにボソッと捕っちゃうことがあって、そんな時には本当に申し訳ないと思います。
──ピッチャーからすれば「オレのボールが悪いのか、おまえがヘタなのかどっちだ?」ということでしょうね。
米野 「いいボールすぎてキャッチングが悪かった」と謝ります。先輩だったら、2、3回重ねて「すみません」と言いますね。一軍で活躍されているピッチャーのボールを受ける時には緊張しました。
──一軍で初めて試合に出た2001年。家族や友達に「プロ野球選手になったぞ」と胸を張って言えるようになったのはいつごろですか?
米野 プロ3年目の2002年に古田さんが故障した時にチャンスをもらって、初ホームランやサヨナラヒットを打ったりしました。自分の中では「やっとプロ野球選手になれたかな」という思いはありました。でも、2005年までは一軍と二軍を行ったり来たりで。
──チームでは3番手か4番手のキャッチャーだったということですね。
米野 そうです。2006年に116試合出たシーズンが僕にとって最大のチャンスでした。
──2005年秋に古田さんが選手兼任監督に就任しました。これまでと同じようにマスクをかぶるわけにはいかないから、米野さんをレギュラー捕手にという流れでした。
米野 監督が代わったことで当然、チームも変わります。自分にチャンスが来るという予感はありました。
──2005年オフには年俸が900万円から1400万円に上がりました。これにはレギュラーとしての期待料が含まれていたんでしょうね。
米野 おそらくそうです。球団の人からも「来年がチャンスだぞ」と言われたように思います。いつもの年以上に気持ちを入れました。
──実際、米野さんは2006年に116試合に出場して7本塁打を打ち、チームは前年の4位から3位になりました。
米野 シーズンの最初はそれなりにプレーできていたんですが、後半に落ちていきました。でも、やはり2006年は自分の中ですごく充実していました。プロは試合に出てナンボですからね。
──そのシーズンオフには年俸が3200万円に上がりました。
米野 はい。せっかくチャンスをいただいたんですが、翌年の出場は32試合に終わりました。チャンスをもらったのにモノにすることができなかった。すべては僕の実力不足のせいです。
──古田さんのあとのキャッチャーという立場で、まわりが求めるレベルが高かったんじゃないですか? スワローズの正捕手ならこのくらいできて当たり前という基準が。
米野 確かに、それはあったかもしれません。でも、プロ野球選手にとってあんなチャンスが巡ってくることは少ないですから、やっぱり自分はダメだったなあと思います。1回のチャンスをしっかりつかまないと、2回目はなかなか来ません。
古田さんのあとだから苦しかったということではなくて、結果を出せなかったのは自分のせいだと思っています。キャッチャーにとって大切なことは、チームを勝たせること。ほかのポジションに比べればやることは多いし重労働だと思いますが、その分、勝利に対する喜びを感じることができるのがキャッチャーだと思います。すごく大変だけど、勝てば報われるポジションです。
(後編につづく)
米野智人(よねの ともひと)
1982年、北海道生まれ。北照高校から1999年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。強肩の捕手として「ポスト古田」と期待を集めた。2001年に一軍初昇格、2002年に初安打、初めてのサヨナラ安打を記録した。古田敦也が選手兼監督になった2006年に自己最多の116試合に出場し、7本塁打を放っている。2010年シーズン途中に埼玉西武ライオンズに移籍。2012年から外野手に転向した。2016年に北海道日本ハムファイターズで選手兼コーチ補佐としてプレーしたのち、引退。現在は東京・下北沢でカフェレストラン「inning+(イニングプラス)」を経営している。