【第29回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」 代名詞のジャーマン・スープレックスで日本プロレス界を震撼させ、コーチやトレーナーとしてアントニオ猪木をはじめ多くの日本人レスラーを指導・育成したカール・ゴッチ。常に勝つことを追…
【第29回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」
代名詞のジャーマン・スープレックスで日本プロレス界を震撼させ、コーチやトレーナーとしてアントニオ猪木をはじめ多くの日本人レスラーを指導・育成したカール・ゴッチ。常に勝つことを追求し続けた「プロレスの神様」の素顔を、間近で見てきたアニマル浜口が語る。
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日本プロレス時代のカール・ゴッチ
「プロレスの神様」カール・ゴッチ(1)
「国際プロレスが解散した後、僕は『国際軍団』としてラッシャー木村さんや寺西勇さんと一緒に新日本プロレスのリングで戦いましたが、ゴッチさんの指導を受けた多くの若手がプロレスラーとして成長し、メインイベンターになっていくのを間近で見ていました。僕と『維新軍』を組んだ長州力選手しかりでね。親しみを込めてというかな、僕だけでなく多くのプロレス関係者が今も『ゴッチさん』と呼びますけど、日本プロレス界に多大な貢献をされた方です」
カール・ゴッチの出生についてはさまざま語られているが、今日では「1924年8月3日、ベルギー・アントワープ生まれ、本名カール・イスターツ」が定説となっている。
幼いとき、一家はドイツ・ハンブルクに移住。ナチス政権下のドイツでカール少年は軍需工場などで働きながらレスリングに励んでいたが、工場での作業中に左手小指を切断したと言われている。しかし、それでもカール少年はレスリングをあきらめなかった。
グレコローマンスタイルとフリースタイルで何度もベルギー王者に輝き、1948年のロンドンオリンピックにレスリングのベルギー代表として両スタイルに出場。そして1950年、念願のプロレスデビューを果たした後、1951年にはイングランド北部に渡ってウィガンのビリー・ライレー・ジム――通称「スネーク・ピット”(蛇の穴)」に入門した。このとき、ジムを紹介したのはビル・ロビンソンの叔父、アルフ・ロビンソンという説もある。
「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」のテクニックを身につけたカール青年は1959年、北アメリカへ進出。NWAイースタンステーツ・ヘビー級王座を獲得すると、NWA世界ヘビー級初代チャンピオンに認定された「近代プロレスリングの父」フランク・ゴッチにあやかり、「カール・ゴッチ」と改名した。
そして1961年4月、ゴッチは日本プロレスのマットに上がるために「カール・クライザー」のリングネーム(アメリカ進出当初に名乗っていたカール・クラウザーではなく、新聞やパンフレットなどではクライザーと表記)で来日。5月1日、大阪府立体育館で行なわれた「第3回ワールドリーグ戦」の初戦の相手となった吉村道明にジャーマン・スープレックスを鮮やかに極(き)め、観客の度肝を抜いた。また、同シリーズでは両者リングアウトながら、力道山とも対戦している。
その後、アメリカ・オハイオ州へ戻ったゴッチは、1962年にドン・レオ・ジョナサンを破ってAWA世界ヘビー級王座を奪取。しかし、ルー・テーズには通算9回もNWA世界ヘビー級チャンピオン獲得に挑むも、その王座は最後まで奪えなかった。その結果、「無冠の帝王」と呼ばれるのだが、ルー・テーズはカール・ゴッチを「自分を一番追い込んだライバル」と評している。
1967年11月、ゴッチはふたたび来日して日本プロレスのコーチに就任。「新春チャンピオン・シリーズ」に特別参加し、ジェリー・ロンドンやケン・ホーリスを破って一旦帰国するが、1968年1月に3度目の来日をした後は東京・恵比寿に移り住んだ。
その目的は、渋谷のリキ・スポーツパレスに開いた「ゴッチ教室」で若手にプロレスの基本を徹底的に叩き込むため。さらにゴッチは、試合会場でも公開トレーニングマッチを行なった。アントニオ猪木がゴッチからジャーマン・スープレックスや卍固めを伝授されたのは、この時期である。
1969年5月、日本プロレスとのコーチ契約が終わったゴッチはアメリカに帰国したものの、テレビが普及してショーアップされたアメリカンプロレスと、彼のヨーロッパ仕込みのストロングスタイルは相入れず、プロモーターから敬遠されるようになってしまった。それでも、自らのスタイルを変えてまで迎合することを嫌い、プロレスから離れハワイへ移住した。
レスラーとして不遇だったそんなゴッチを蘇(よみがえ)らせたのが、国際プロレスの吉原功(よしはら・いさお)社長である。
「スネーク・ピットの弟弟子(おとうとでし)にあたるビル・ロビンソンがゴッチさんを日本に呼ぶよう、吉原社長に進言したそうです。吉原社長はゴッチさんの近況を聞いて『もったいない』と。社長はゴッチさんのテクニックの高さを認めていましたし、アメリカではウケなくても、じっくり試合を観て楽しむ日本の目の肥えたファンには好まれるとわかっていたんでしょうね。
ゴッチさんはプロレスのリングには上がっていませんでしたが、ハワイで若者を鍛えるかたわら、自らもトレーニングを続けていました。北京オリンピックの後だったかな、京子と家内と3人でハワイへ行ったとき、当時ゴッチさんの指導を受けていたという方からお話をうかがいました」
ゴッチは1971年3月31日に開幕する「第3回IWAワールド・シリーズ」に参戦するため来日。日本プロレスの「第13回ワールドリーグ戦」に対抗すべく、吉原功は錚々(そうそう)たる外国人レスラーを呼び寄せたが、カナダ代表のドクター・デスとトリニダード・トバゴからの留学生・黒潮太郎以外は、ゴッチをはじめヨーロッパ出身またはヨーロッパで活躍するレスラーばかりであった。
集まったメンツは、第1回・第2回優勝者のビル・ロビンソン、「大巨人」モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)、シーン・リーガン、バスター・マシューズ、マグナ・クレメント、ジャック・クレインボーンなど。それら外国人レスラーを迎え撃つのはラッシャー木村、グレート草津、サンダー杉山といった国際プロレスの主軸たち。ストロング小林とマイティ井上は海外遠征中だった。
シリーズ最大の注目は、『”人間風車”ビル・ロビンソンvs.”無冠の帝王”カール・ゴッチ』のスネーク・ピット兄弟弟子対決。ともに業師(わざし)であるだけでなく、激しさや怒りを前面に押し出して戦う32歳のロビンソンと、冷静沈着に淡々と相手を仕留める46歳のゴッチがどんな勝負を魅せてくれるのか――。夢の対決に、日本中のプロレスファンは大いに盛り上がった。
(つづく)
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