3月23日から春のセンバツ高校野球大会が開幕する。総勢36校のうち、「夏春連続出場」を決めたのが10校。二季連続となる全国舞台で”甲子園初勝利”を目指す指揮官のひとりが、下関国際(山口)を率いる坂原秀尚(さかはら・ひでなお)監督だ。

 昨夏、春夏通じて初出場を果たした下関国際。就任当初、荒れていた野球部を立て直し、甲子園に導いた一連のエピソードは山口大会優勝決定後から盛んに報じられていただけに、記憶に残っている読者も多いだろう。



昨年夏に続き、2季連続の甲子園出場を決めた下関国際・坂原監督

 甲子園初陣は9-4で初戦敗戦。試合後半には持ち味である思い切りの良さを随所に見せたが、前半の失点が重くのしかかった。試合時間1時間39分。瞬く間に終わりを告げられた初めての甲子園だった。 

 初の全国舞台は苦い結果に終わったが、旧チームのレギュラー7人が残っていたこともあり、優勝候補大本命と目された昨秋の山口大会は見事優勝。同じく優勝候補の一角に挙げられて臨んだ中国大会でも危なげなく決勝まで勝ち上がり、2季連続の甲子園出場を勝ち取った。

 昨夏の甲子園初出場、そして今回のセンバツ初出場と、”ブレイク”を果たした印象もある下関国際。しかし、ここに辿り着くまでの道のりは平坦なものではなく、一段ずつ階段を上るような日々の積み重ねだった。

 坂原は、現役時代は投手として社会人野球までプレーを続けた。広島国際学院大在籍時には教員免許を取得していなかったため、引退後、免許取得のため東亜大に編入。下関市にある同大学に通ううちに下関国際の噂を耳にする。

「不祥事の影響で指導者がいない、校長先生がひとりで指導している、という話が聞こえてきました。2年時編入で東亜大に通学していて、3年間は下関にいるので『僕でよければお手伝いさせてください』と手紙を送ったんです」

 後任を探していた同校にとって坂原からの手紙は渡りに船となり、2005年の8月に監督就任。同年秋の大会が監督としての公式戦初采配となった。当時の様子をこう振り返る。

「不祥事明けということもあって、スタンドのお客さんからのヤジも聞こえたり。選手たちは完全に委縮していましたが、私もまだ若かったこともあって『お前ら、気にするんじゃねえ!』と言いながら試合前のノックを打ったりしましたね」

 公式戦初采配となったこの試合は毎回失点を喫しての5回コールド負け。その後も中々勝てない時期が続いたが、2008年に転機が訪れる。

 当時、夏の大会前最後の公式戦にあたる会長旗争奪大会(現在は廃止)で初戦突破。自身の就任後、初めてとなる公式戦での勝利を挙げた。

 さらに同年夏はコールドでの夏初勝利も達成。翌2009年夏はベスト8、2011年夏は現在部長としてともに指導にあたる、エース・大槻陽平を軸にベスト4に食い込んだ。

 2015年春には初めて県の頂点に駆け上がり、夏も準優勝を果たす。そして2017年夏、就任12年目で悲願の甲子園初出場を掴み取った。

 安定して県大会の上位に顔を出すようになった下関国際だが、”順風満帆”な野球人生を歩んできた選手は多くはない。

「ウチに来る選手は、基本的に大きな実績を残せていない選手です。たとえば、現チームでエースの鶴田(克樹)も中学時代は軟式で無名の捕手でした。地元の強豪から声がかからなかった県外出身の選手もいます。みんな自信がないところからのスタートなんです」

 野球、勉強両方での成功体験が乏しく、自信を持てないまま、下関国際の門を叩く。目一杯野球に打ち込むことで、そうした選手たちにひとつでも誇れるものを持ってほしいという思いもある。

 坂原のなかに、指導者として揺るがないひとつの信念がある。「ひとつの物事に集中して取り組む」ことができなければ、大きな目標は達成できないということだ。

「何かひとつの分野を極めようと思ったとき、”片手間”でやっても成功することはできないと思っています。脇目を振らずにひとつのことに打ち込むことは、決して否定されるものではないとも思うんです」

 誤解を招かないように、ひとつ強調しておきたいのが、決して下関国際の選手たちが勉強を放棄しているわけではないということだ。坂原は以下のように続ける。

「僕自身、一教員であり、生徒たちは野球選手である前に一学生です。授業中に居眠りをしたり、課題を提出しないといった姿勢は論外ですし、そういった行動をとった部員は練習に参加させません。でも、学校で授業をきちんと受けるのは学生にとって『当たり前』のことですよね。

『甲子園に行く』と覚悟を決めて、野球を追求する。学校内での授業は他の生徒の模範となるように全力で受ける。ひとつひとつ目の前のやるべきことに取り組むこと。そうやって『ひとつの流れで物事に取り組むことが大切なんだよ』と選手たちによく話しています」

 大きな目標を掲げ、そこに向かって物事に取り組む際に”挫折”は付き物だ。坂原曰く、そういった状況に出くわすことこそが”本当のスタート”だという。

「野球に限ったことではありませんが、何かを極めようと思って取り組むとき、たとえそれが自分の好きなものであっても、葛藤や苦しみは必ず生じるものです。もしかすると好きで仕方がなかったものが嫌いになってしまうかもしれない。

 でも、選手の心が折れそうなとき、挫折を味わったときこそ、指導者の存在が必要になってくる。今まで受け入れなかったアドバイスに耳を傾けるようになったり、大きく力を伸ばすチャンスでもありますし、そこが本当の意味でのスタート。あと一歩踏ん張れば殻を破れる、目標に到達できるかもしれないという状況で、我々指導者がどうアプローチしていくか。そこが一番重要だと思っています」

 昨年は主将を務める選手が大きな挫折を経験した。日々野球に打ち込むなかで思うようにチームをまとめられない、成長できていない自分に対してつのった葛藤が原因だった。その選手と坂原の話し合いは深夜にまで及び、この一件で腹をくくったその選手は夏の大会で大車輪の活躍を見せ、甲子園初出場に貢献した。

 甲子園ではエースナンバーも背負い、主将としての責務をまっとうし、高校野球を終えた。本人の努力はもちろん、坂原が最後まで見捨てることなく、指導にあたったからこそできた大きな成功体験だった。

 「3年間、下関にいるのでお手伝いさせてください」

 監督に就任するきっかけとなった手紙に記したように、元々は将来的に地元・広島で指揮を執ることを思い描きながらの指導者生活のスタートだった。しかしながら、現在は下関国際を離れるつもりはまったくないという。

「選手たちの人生を預かっているので、自分から途中でチームを去るつもりはまったくないです。嬉しいことに、今では『下関国際で野球がしたい』と入ってきてくれる選手がほとんど。その思いを裏切ることはできません」

 そう力強く語る姿には、信念を持って指導に取り組み続けた下関国際野球部への愛着と誇りが感じられる。

 坂原監督を取材して、ひとつ驚いたことがあった。就任から現在までの各年代で起こったエピソードを歴代の選手名を交えて、数多く語ってくれたのだが、そのひとつひとつが実に淀みなく語られるのだ。年代を錯誤することや、ある選手の名前がとうとう思い出せない……といったことは一度もなかった。真剣に選手を思い、1年1年、心血を注いで指導に取り組んできた何よりの証(あかし)だろう。

 初戦敗退に終わった初めての甲子園。初の中国王座を手にしたかに思えながら、優勝を逃した昨秋の中国大会。ひとつ階段を上ると、すぐさま新たな試練を与えられる。しかしながら、その度に力をつけ、逆境を跳ね返してきた坂原と下関国際。きっと、この春も今まで辿り着けなかった領域に足を踏み入れるはずだ。

「初めての甲子園で経験した球場の特性や戦術面の反省を踏まえて、『こうやったら勝てるかな』という試合運びのイメージが少しずつ芽生えてはいます」と語った熱血漢。

 誰よりも時間をかけ、真摯に向き合い続けた選手たちとともに舞い戻る甲子園で、今度はどんな戦いを披露してくれるのか。球春の訪れはすぐそこに迫っている。