2月25日に行なわれた東京マラソンは、日本男子マラソン界に光明が差すレースになった。 16年ぶりに日本記録を更新した設楽悠太(Honda)の走りはもちろん素晴らしかったが、日本人2位でゴールした井上大仁(ひろと/MHPS:三菱日立パワ…

 2月25日に行なわれた東京マラソンは、日本男子マラソン界に光明が差すレースになった。

 16年ぶりに日本記録を更新した設楽悠太(Honda)の走りはもちろん素晴らしかったが、日本人2位でゴールした井上大仁(ひろと/MHPS:三菱日立パワーシステムズ)も日本歴代4位となる2時間06分54秒をマーク。レース終盤まで設楽をリードして”大会連覇”も見えていた井上は、レース後に「思い出したくないくらいに悔しい」と語り、早くも日本記録を塗り替えることに意欲を見せている。




東京マラソンのゴール時にも、悔しそうな表情を浮かべた井上

 その2人に続き、2時間08分08秒の日本人3位でゴールしたのは、井上と同じMHPS所属でチームの主将を務める木滑良(きなめ・りょう)だった。

 これから日本のマラソン界を引っ張っていくことが期待される井上と木滑を育てたのは、MHPSマラソン部の黒木純監督だ。

 自らもランナーとして活躍した黒木は、1990年に宮崎県立高鍋高校から山梨学院大に進み、3年時には箱根駅伝の9区で区間賞を獲得。主将を務めた4年時にも9区を担い、区間2位となる快走で山梨学院大2度目の優勝に貢献した。

 三菱重工長崎(MHPSの前身)に入社後、大学4年から取り組んだマラソンでは1995年のシドニーマラソンで優勝し、1996年のびわ湖毎日マラソンでは自己ベストとなる2時間12分36秒を記録している。31歳で現役を退いた後は、コーチを経て2003年にマラソン部の監督に就任した。

 同マラソン部に入ってくる選手には高校や大学のトップランナーが少なく、外国人選手が加入したのも2015年の春からという”地味な”チームだった。だが、2016年11月の九州実業団毎日駅伝では強豪・旭化成を破って初優勝し、ニューイヤー駅伝では2年連続で入賞(2017年は4位、2018年は8位)と、徐々に強豪チームの仲間入りを果たしてきた。

 個人のマラソン記録でも、2014年の東京マラソンで松村康平がサブテン(2時間10分以内)を達成すると、井上、木滑がそれに続いた。マラソンでいい流れができたのは、黒木が監督に就任する前、旭化成から出向していた児玉泰介監督(現・愛知製鋼監督)が指導している1999年だった。

「1999年に小林誠治が初マラソンで2時間12分07秒(当時の延岡西日本マラソンの大会新記録)を出してから、みんなが本気でマラソンに取り組むようになって、2時間11分台や10分台前半を出す選手が増えてきました。まだ弱いチームだったので、(当初は)12分台の記録でもプレッシャーになっていたんですね。だから、選手たちには2時間8分台や7分台を目指すのではなく、まずは『日本人トップになって代表になる』ことを目標にさせました。

 すると松村が、3回目のマラソンでアジア大会の日本代表に選ばれた。やはり段階を踏ませなければダメだということですね。今の選手は明らかに力が足りなくても『東京マラソンを走りたい』と言ってくる。昔ならどのチームの指導者もそれを却下していたのに、最近は走らせてしまうことが多くなったと思うんです。でも僕は、その選手に合ったレベルのレースに挑ませて、そこをクリアしたら次の段階にいかせています」

 黒木は、2008年から日本陸連の長距離マラソン強化スタッフも務め、サブテンの可能性があるトップクラスの選手を海外合宿や遠征などで育成する役割を担っている。そこには松村をはじめ、ロンドン五輪で6位入賞した中本健太郎やリオデジャネイロ五輪代表の石川末廣と佐々木悟、さらに今井正人などが参加していた。最近では井上、設楽啓太・悠太、神野大地、鈴木健吾なども合宿に呼んでいる。

「初めは高地トレーニングのデータを取る目的もあったんですが、僕は選手たちに『自分で物事を考える選手になってほしい』とも考えていました。だから、練習メニューは試合に向けて僕が作っていたのを、基本的にはフリーにすることが多くなってきました。速いペースでいく選手、ゆっくりいく選手がいて、中には朝から120分くらい走る選手もいます。

 最初は躊躇(ちゅうちょ)している選手も、誰かがやりだしたら一緒にいくようになる。サブテンの選手が続々と出たときの中国電力がまさにそれと同じ状態で、何も言わなくても選手たちが競争していたんです。近年は記録が伸びていませんでしたから、自主性を育てるのと集団走のバランスをうまくとることも考えていましたけどね」


MHPSの黒木純監督

 photo by Oriyama Toshimi

 最初のうちは、陸連の強化に携わることで自身が「いろいろ学べる」と思っていたという。そかし、そのうちに指導者としての意識が高まり、「自分のチームからも代表選手を出したい」という思いが強くなった。
 選手たちにも

「駅伝だけじゃダメ」という危機感があり、年間を通した練習もマラソンを意識したものを取り入れている。主に学生が行なうようなハードルトレーニングや体幹の補強、股関節の可動域を広げるトレーニングも、「週に2回、30歳を過ぎた選手にもやらせていますよ」と黒木は言う。

 そんな黒木の”試み”はレース直前の準備にまで及ぶ。

「練習は、前任の児玉泰介さんがやっていた旭化成のスタイルを基本にしたものですが、レースの1週間くらい前に16kmを本番に近い形で走るのが、うちの選手にはきついとも感じていました。『力がある選手の結果が出せないのは、少し疲れているからかな』と思い、2014年の東京マラソンに松村が出るときに『レース直前にゆったりした調整を入れたらどうなるか』をやってみたんです。

 そうしたら8分台が出て、アジア大会でも銀メダルを獲得した。それからは30kmをゆったりと走らせて、血液の循環をよくして体をリラックスさせ、最後に3km~5kmの調整走をやらせる形にしたんです」

 さまざまな試みで選手の能力を伸ばしてきた黒木。しかし、山梨学院大で1年時から箱根駅伝に出場するなど、チームの主力として活躍した井上に関しては例外だった。宗茂・猛兄弟に「井上には早めにマラソンをやらせたほうがいい」と言われていたこともあったが、2015年の入部当初から”東京五輪で日の丸を背負える逸材”と見ていた。

 入社1年目にして、ニューイヤー駅伝のエース区間である4区に抜擢された井上は区間3位の快走を見せる。その直後に黒木はマラソン挑戦を打診し、駅伝からわずか2カ月後に井上の初マラソンとなる、びわ湖毎日マラソンを迎えた。ほぼ即席の練習で出場させたのには、リオデジャネイロ五輪の代表選考レースとなっていた大会で緊張感を経験させ、自分の力を吐き出してどこまで我慢できるかを見る狙いがあった。

「そのびわ湖毎日マラソンの結果は2時間12分台でしたけど、失敗してもいいとも思っていました。そこで課題を作って克服していけば次は失敗しないはずだと。(日本記録を保持していた)高岡寿成さんでさえ、あれだけの素質があっても初マラソンは2時間09分41秒。初マラソンでいきなり2時間6分台を記録していたら満足してしまっただろうし、そうなったら日本記録も出せなかったかもしれない。

 だから、井上はいいスタートを切ったと思いますね。2カ月の練習でも2時間9分台は出るかもしれないと思っていたんですけど、疲労が蓄積していたんでしょう。レース後には故障もしましたし、井上本人も『故障せずにうまく走れる土台を作ろう』という気持になれたんだと思います。

 ただ、井上の場合はこれまでの選手とは素質が違うから少し新しいことを試さないといけない。それで『1km3分切りでいこう。もう日本人は見ないで対外国人ランナーでいこう』と話したんです」

 今回の東京で2時間6分台を出したにもかかわらず、井上が悔しさを滲ませたのは、その目標を果たせなかったからに他ならない。学生のうちからトップ選手として活躍した井上が「勝ちたい」という気持ちを前面に出すことで、チームの雰囲気も少しずつ変わりはじめた。それを機に、他の選手たちも”その気”にさせようと、黒木は強気な言葉を用いるようになる。

「(2016年の)毎日駅伝では『旭化成に勝てるよ』と言い続けましたし、それから間もないニューイヤー駅伝も『絶対に入賞できる』と断言して、どちらも実現できた。もともと井上はそういう気持ちを持っていましたが、それがチーム全体に波及し、レースで競り負けていた選手たちもトラックレースなどで粘り勝ちすることが多くなったんです」

 そんな黒木の言葉通りに、今年の東京マラソンでは井上に引っ張られるように木滑が自己ベストを更新。東京五輪の代表選考レースである、2019年のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)出場権を獲得した。

 MHPSの選手たちは、井上と木滑の姿にさらなる勇気をもらったことだろう。MGC出場をかけたレースは来シーズンも続くが、黒木に導かれたMHPSの”新星”が台頭することを期待したい。