【第28回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」 来日早々に国際プロレスで主役を張り、いきなり初代IWA世界ヘビー級チャンピオンに輝いたビル・ロビンソン。その果敢なプロレススタイルも、ファンの心を鷲づかみにした。得意技のダブル…
【第28回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」
来日早々に国際プロレスで主役を張り、いきなり初代IWA世界ヘビー級チャンピオンに輝いたビル・ロビンソン。その果敢なプロレススタイルも、ファンの心を鷲づかみにした。得意技のダブルアーム・スープレックスをはじめ、観客の度肝を抜いた技の数々……。アニマル浜口が惚れこんだ英国人レスラーとの思い出を振り返る。
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全日本のマットで戦うジャンボ鶴田(左)とビル・ロビンソン(右)
「人間風車」ビル・ロビンソン(2)
アニマル浜口はビル・ロビンソンの華麗なプロレスを見て、大いに驚いたという。
「プロレスのスタイルはパンチやキックを使わない、いわゆる『キャッチ・アズ・キャッチ・キャン』でした。スネーク・ピット(蛇の穴/ビリー・ライレー・ジム)出身ですから、パンチ・キック以外なら関節技でも何でもありのオールラウンド。運動能力が抜群で、レスラーとしてのテクニックも最高でした。ひとつひとつの技がキレイに極(き)まる。『人間風車』というニックネームのもとになった得意技のダブルアーム・スープレックスも見事でしたね」
ロビンソンが木村政雄――後のラッシャー木村にダブルアーム・スープレックスを極めたとき、日本のプロレス関係者や観客たちは「あの技は何だ?」と度肝を抜かれたという。
「ダブルアーム・スープレックスを試みるレスラーはそれ以前もいましたけど、ビル・ロビンソンはあの技をフワッと円を描くのと、低空で一気にもっていくのと、ふたつのやり方で、しかもスピードがありました。彼にしかできないものでしたね。
また、スープレックスだけでもいくつもバリエーションがあり、フロント・スープレックスやひねりを効かせたサイド・スープレックスもやりました。それ以外にもワンハンド・バックブリーカーやパイルドライバー、相手の首を掴んでからのショルダー式ネックブリーカーなど、どれもすごかったな。日本人選手はほとんど受け身がとれず、大きなダメージを受けていました。
吉原功(よしはら・いさお)社長も『これはすごい』と思われたんでしょうね。若手選手の技術アップのために、ロビンソンに特別コーチを依頼したほどですから」
その「ロビンソン教室」は1968年のワールドチャンピオン・シリーズ終了後から1969年5月まで開設。マイティ井上や寺西勇などを指導し、その後も来日するたびに将来性の豊かな若手をコーチした。1969年8月に入門してデビューしたばかりのアニマル浜口も徹底的に鍛え上げられたという。
「プロレスに入ったばかりの僕にも丁寧に指導していただき、今でもホント感謝しています」
その後、バーン・ガニアがプロモーターを務めるAWA(アメリカン・レスリング・アソシエーション)と国際プロレスが提携したのを機に、ロビンソンは1971年にアメリカへと進出。ただ、AWAを主戦場としながらも来日を続け、国際プロレスのリングに上がった。
第2回ワールドチャンピオン・シリーズでは、決勝戦でストロング小林を破って連覇。1971年の第3回大会ではわずかなポイント差で怪物モンスター・ロシモフ――後のアンドレ・ザ・ジャイアントに優勝を奪われるも、スネーク・ピットの先輩カール・ゴッチも加えた3人で熱戦を繰り広げ、プロレスファンを大いに沸かせた。
「1972年2月からと1976年6月からの2度、武者修行でアメリカとカナダに渡った僕もAWAで戦っていたことがあり、シカゴやデトロイトの控え室でビル・ロビンソンと一緒になったことが何度かありました。だけど、戦うことができたのは1度だけ。今、思うと残念ですね」
1974年5月26日、愛知・豊田市体育館でロビンソンはなんと金網デスマッチを敢行。マイティ井上と組み、セーラー・ホワイト&レーン・ゴルト組を撃破した。
そして同年6月3日、東京・後楽園ホールでラッシャー木村を破ってIWA世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いたロビンソンは、11月20日に東京・蔵前国技館でバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座にも挑戦。61分3本勝負の結果は1−1でガニアが王座を防衛したものの、外国人同士のAWA戦は日本初の出来事だった。
この試合を、ビル・ロビンソンの日本における「ベスト・バウト」と評するファンも多い。しかしながら、これがロビンソンにとって、国際プロレスでの最後の試合となった。ちなみに翌11月21日、大阪府立体育館で行なわれたAWA世界ヘビー級チャンピオンのバーン・ガニアとIWA世界ヘビー級チャンピオンのマイティ井上が戦ったダブルタイトルマッチを裁いたのは、そのロビンソンである。
1975年、ロビンソンはカール・ゴッチに誘われて新日本プロレスへ。さらに1976年からはドリー・ファンク・ジュニアの仲立ちで全日本プロレスと契約する。1977年3月にはミル・マスカラスとのドリームタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田をストレートで破る伝説などを残した。そして1985年、現役を引退。
ジャイアント馬場から全日本プロレスのエースの座を引き継いだジャンボ鶴田の得意技は、ロビンソンから学んだ点が多いと言われている。また、プロレスのスタイルもロビンソンをベースにしていると語るファンも多い。
1992年にはUWFインターナショナル横浜大会でニック・ボックウィンクルとエキシビションマッチを行なうなど、その後も来日を続けたロビンソンは、1999年から元UWFインターナショナルの宮戸優光が主宰する「UWFスネークピットジャパン」のヘッドコーチに就任。ジム近くの東京・高円寺に住み、2009年にアメリカ・アーカンソー州リトルロックへ移った。そして2014年2月27日、死去。享年75歳だった。
「『日本が第2の故郷』と言ってくれていましてね。浅草でやっていた女房の店にもよく来ていただきました。ビール、ワイン、ウイスキー、紹興酒、日本酒、焼酎……なんでもOK。いくら呑んでも、乱れるということはなかったですね。お酒も強かったですよ。まさに、”ストロング”。国際プロレスから新日、全日に移った後、アントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんと60分勝負を繰り返していたことを考えると、スタミナも無尽蔵だったんでしょうね。
また、お酒を呑みながら、娘の京子にいろいろ教えていただきました。インターバル走や、相手の手の切り方など。レスリング好き、指導好きなんでしょうね。高円寺のスネークピットジャパンで若者を指導しているときも楽しかったんじゃないですかね。
鞄にレスリングシューズとタイツだけを詰め込み、世界各地を飛び回って戦ってきた『人間風車』は、レスリングをこよなく愛す、根っからのレスラーだったんですね。誠心誠意、一生懸命やってきたことへの自信が風格となった英国紳士の姿を、僕はビル・ロビンソン先生から見せていただきました」
(つづく)
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