【第27回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」 国際プロレス社長・吉原功(よしはら・いさお)が開拓した新ルートでヨーロッパから来日を果たしたビル・ロビンソン。必殺技ダブルアーム・スープレックスを武器に「人間風車」と呼ばれ、長…

【第27回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 国際プロレス社長・吉原功(よしはら・いさお)が開拓した新ルートでヨーロッパから来日を果たしたビル・ロビンソン。必殺技ダブルアーム・スープレックスを武器に「人間風車」と呼ばれ、長く国際プロレスのエースとして活躍した。日本を愛し、引退後は東京に移り住んで若手を指導したジェントルマンの素顔を、ともに浅草で呑み明かしたアニマル浜口が語る。

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国際プロレスで人気を博したビル・ロビンソン

「人間風車」ビル・ロビンソン(1)

「僕がもっとも尊敬する吉原功社長が日本のプロレス界にもたらした最大の功績」

 アニマル浜口がそう評す、国際プロレス吉原社長による「ヨーロッパルートの開拓」。以前のコラムでも説明したが、キッカケは吉原の早稲田大学の先輩であり、日本レスリング協会(当時日本アマチュアレスリング協会)元会長にして国際レスリング連盟理事、副会長を長年務めた八田一朗(はった・いちろう)の紹介によるものだった。

 吉原と八田の信頼関係、絆(きずな)は深い。

 八田は国際プロレス立ち上げ前から吉原を支援し、創設時には発起人として名を連ね、1976年10月に行なわれた「勇猛シリーズ」のパンフレットに掲載された特集『国際プロレス10年の歩み』には、以下のような祝辞を贈って国際プロレスを激励している。

『創立10周年おめでとう。決して平坦な道ではなかったと思われるこの十年の、吉原代表はじめ選手・社員諸君の努力と精進は、常にマット界とつかず離れずの関係にあった私には、良くわかっているつもりだ。プロレス界の発展があってこそ、アマレス界の隆盛がある。これからもレスリング界の向上のために、大いに頑張って欲しい』

 国際プロレス誕生から1年あまりの1968年2月、吉原はそれまでアメリカルート一辺倒だった日本プロレス界に革命を起こす。ヨーロッパから選手を招聘することを発表し、イギリス出身の4選手を参加させて「日欧決戦シリーズ」を行なったのだ。そして、同年4月には「日英チャンピオン・シリーズ」も開催。この大会に出場するためにヨーロッパから来日したのが、ブリティッシュ・ヘビー級チャンピオンとヨーロピアン・ヘビー級チャンピオンの肩書を引っ提げできたビル・ロビンソンである。

 1938年、ロビンソンは曽祖父の時代から続くイギリス・マンチェスターのボクシング一家に生まれた。少年時代はボクシングに励んでいたものの、13歳のときに飛んできたブリキの看板に当たって眼球を負傷。ボクシングを断念せざるを得なくなり、レスリングの世界に転向することになった。

 15歳になったロビンソンは、イングランド北部のウィガンでビリー・ライレーが指導するジム――通称「スネーク・ピット(蛇の穴)」に入門。そして1959年に19歳でプロデビューを果たし、ヨーロッパ各国はもちろん、中東やインド、そして南アメリカまで活躍の場を広げていった。

「国際プロレスのリングに上がった数々の外国人レスラーのなかでも、エースと言えばビル・ロビンソン。実力、人気ともにナンバー1。もっとも多くのファンに愛された外国人レスラーでしょう。

 青山の道場で会ったとき、『これが本場のクイーンズ・イングリッシュ(イギリス英語)か』と、歯切れのよさに感心したのを覚えています。絵に描いたような英国紳士、貴公子でしたね」

 アニマル浜口は初めてロビンソンと出会ったときの印象をこう振り返る。

 アメリカ人レスラーは皆、ラフな格好で来日していた。だが、ロビンソンはスーツ姿で羽田空港に降り立った。

「プライドは相当なものでしたが、ハンサムでジェントルマン。何をやっても所作(しょさ)がキレイでね。誰にでも畏敬の念を抱かせる風格というか、気品がありました」

 初来日で豊登(とよのぼり)とサンダー杉山の挑戦を退け、ヨーロピアン・ヘビー級王座を防衛したロビンソンは、1968年11月にふたたび来日して「ワールドチャンピオン・シリーズ」に参戦。このリーグ戦を制し、初代IWA世界ヘビー級チャンピオンに輝いた。

 また、シリーズ終了後もロビンソンは日本に残り、外国人でありながら国際プロレスの日本陣営で奮闘する。その結果、「外国人レスラー=悪役」というそれまでのプロレスのイメージを覆し、ヒーローとしてファンを熱狂させていった。

(つづく)
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