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【短期連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス (2)】
(1)から読む>>)
欧州を離れ、日本にやってきたピッチの妖精
1990年イタリア・ワールドカップにおいて、「大会ナンバーワン10番」としてディエゴ・マラドーナを凌ぐ評価を得た天才MF--。”ピクシー”ことドラガン・ストイコビッチは、ジーコやピエール・リトバルスキー、ギド・ブッフバルトら大物選手が顔を揃えた創成期のJリーグにおいて、まぎれもなく超一流の選手だった。
競り合う名古屋のストイコビッチ(左)と浦和のブッフバルト(右)photo by AFLO
しかし、そんな彼も、ワールドカップ以降は不遇をかこっていた。
フランスの名門、マルセイユの新10番として迎えられた1990-1991シーズンは、開幕して早々に左ヒザを負傷し、その後のシーズンを棒に振った。1991-1992シーズンはセリエAのヴェローナに期限付き移籍したものの、ケガの影響もあって不完全燃焼に終わっている。
ユーゴスラビア代表としては、欧州選手権の予選を勝ち抜いて1992年夏の本大会出場を決めたが、ユーゴスラビア内戦への国連の制裁措置としてFIFA、UEFAから代表チームの活動停止処分が下され、出場権が剥奪された。
その後、1992-1993シーズンにマルセイユに復帰すると、チームはリーグ5連覇と欧州チャンピオンズカップ優勝を達成。ところが、リーグ戦での八百長が発覚し、1994年3月に、2部降格とチャンピオンズカップ優勝の剥奪が決定する……。
名古屋グランパスからのオファーは、こうした不運が続くなかで届いたものだった。アーセン・ベンゲルと同様、欧州サッカー界に身を置くことに疲れていたストイコビッチは、半年間だけ日本でプレーするつもりで移籍を決断する。
1994年6月10日、ストイコビッチは真っ赤なスーツに身を包んで成田空港に降り立った。正式契約を結んだ後の13日の会見では、「名古屋にはドラゴンズという野球チームがあるから、私のドラガンという名前も覚えやすいと思う」とリップサービスも飛び出した。
テクニックが錆びついていないことが証明されたのは、大雨の中で行なわれた9月17日のジェフユナイテッド市原戦だった。後半29分に直接FKで移籍初ゴールを決めると、ゲーム終盤には、グチャグチャにぬかるむピッチを避けるため、リフティングしながらボールを40m近く運んでスタンドのどよめきを誘った。

当時のベンゲル、ストイコビッチについて語る中西哲生 photo by Tanaka Wataru
しかし、ストイコビッチは低迷するチームの救世主にはなれなかった。ゴードン・ミルンが指揮を執るチームは戦術が破綻していたうえに、ストイコビッチ自身のコンディションも整っていなかったからだ。
「体が絞れていなくて、重そうでしたからね」
そう証言するのは中西哲生である。英語が話せた中西は、ストイコビッチと食事に出かけたり、洋服を買いに行ったりと、プライベートの時間を共有することが多かった。
「練習の次元は明らかに違いました。なんでもできるし、ものすごく負けず嫌いだし。立ち居振る舞いも絵になる本物のスターだなって。ただ、コンディションが悪かったから、能力の半分も出せていなかったと思います。94年は僕がボランチを務めることが多かったんですけど、僕が先発でピクシーがベンチという試合もあって、あり得ないよな、と思っていましたね」
ベンゲルが新監督に決まったことで、グランパスとの契約を延長したストイコビッチは、1994年の12月末にユーゴスラビア代表に招集された。対外試合禁止の措置が解けたユーゴスラビア代表は南米遠征を組み、12月23日にブラジル代表と、26日にアルゼンチン代表との親善試合を予定していた。
ちょうど同じ時期に、すでにグランパスとの契約を締結したベンゲルが新外国人選手獲得のためにブラジルまで視察に訪れており、ユーゴスラビア代表の宿舎で2人は面会した。
「ピクシーが、『ブラジルでベンゲルに会ったんだ。やはり素晴らしい監督だよ』と嬉しそうに話してくれたんです。超一流選手をここまで高揚させるベンゲルって、いったいどんな監督なんだろうと思いました」
新シーズンを前に、中西の期待は高まる一方だった。
海外の強豪と互角に渡り合ったプレシーズン

ASモナコ監督時代のベンゲル photo by Getty Images
1995年シーズンから名古屋グランパスの通訳を任せられることになった村上剛は、目の前の人物に少し意外な印象を受けた。
「始動日の2、3日前だったと思いますが、顔合わせの場のようなものが設けられて、初めてベンゲルに会ったんです。そういう意味では、僕のほうが選手よりも先に会ったのかもしれませんね」
英語が得意だった村上は、1994年10月の広島アジア大会で、ボランティアとしてレバノン代表のサポートに当たった。そのことが縁でグランパスが英語の通訳を探していることを知り、面接を受けて採用された。
「メガネをかけていて、ほっそりしていて長身。ベンゲルは、落ち着いたジェントルマンという感じでした。自分が抱くサッカー監督のイメージとはちょっと異なっていましたね」
もっとも、シーズンが始まると、村上はベンゲルの別の顔を知ることになるのだが。
サッカー監督らしくない、という印象を抱いたのは村上だけではなかった。1995年1月23日の始動日に、トヨタトレーニングセンターで選手の前に立ったベンゲルに対し、中西も
「なんか哲学者みたいな人だな」という印象を受けたという。さらに中西が驚かされたのは、フランス人のベンゲルが英語を操っていたことだ。
「これは、すごくありがたかったですね。僕は英語が少し話せるので、ベンゲルの伝えたいことがダイレクトに理解できたんです」
一方、当時プロ3年目の20歳で、売り出し中の左ウイングだった平野孝は期待を膨らませていた。
「背が高くて、オーラを感じたんです。その時点ですでにモナコを変えた実績のある方だと聞いていたので、何かを変えてくれるんじゃないかって」
トヨタトレーニングセンターで10日間のトレーニングを積んだ後、グランパスは2月5日から沖縄県の今帰仁村(なきじんそん)でキャンプを張った。早朝マラソンをこなし、午前と午後に練習が組まれ、戦術トレーニング--特にここでは、ゾーンディフェンスをはじめとする守備戦術の徹底に励んだ。
練習の段取りはしっかりとオーガナイズされ、流れるようにメニューが移っていく。小倉隆史は、それに心地よさを感じていたという。
「練習内容で印象的だったのは、ワンタッチのゲーム形式です。その他の練習も短時間に凝縮されていて、すごく効率的でした。キャンプだからといって負荷を強くかけるわけでもないから、浅野(哲也)さんが不安がっていたのを覚えています。例年のような筋肉痛がなかったですからね」
平野によれば、動き方を体に覚えさせるためのパターン練習が多かったが、同じメニューは1度たりともなかったという。
「それはキャンプだけじゃなくて、シーズンを通してですね。人を変えたり、サポートやパスの角度を変えたり、ルールを変えたりして飽きさせないんです。だから体よりも頭がすごく疲れた。特に、僕はそれまで勢いでやってきたタイプでしたから、大変でしたよ」
1月30日には新外国人選手であるジェラール・パシと新コーチのボロ・プリモラツが来日し、2月2日には同じく新戦力のフランク・デュリックスとトーレスがチームに合流した。
元ブラジル代表の名センターバックであるカルロス・アルベルトを父に持つトーレスは、ベンゲル自ら映像で確認し、獲得を熱望したDFだった。
パシとデュリックスはともにフランス代表クラスのMFで、EURO1988の予選などで活躍したパシはゲームを組み立てられるクリエイティブなタイプ。対してデュリックスは、代表キャップこそないものの、ダイナミックな展開力が魅力のボランチでASカンヌではキャプテンを務めていた。
3人は沖縄キャンプから合流したが、中西がそのレベルの高さに気づくのに時間はかからなかった。
「まだ不慣れなところもありましたけど、明らかにうまいし、サッカーインテリジェンスも高いなと。彼らはベンゲルが望んで獲得した選手たちですから、ベンゲルの目の確かさを感じて、信頼が高まりましたね」
2月12日に行なわれた横浜マリノスとのプレシーズンマッチは、FWにコンバートされた岡山哲也のゴールで先制しながらも1-3で敗れたが、ベンゲルは「面白いゲームだった。組織面ではこれからの目標を見せてくれた。ゾーンディフェンスという点では練習の成果があった」と、キャンプの成果に一定の手応えを示した。
この試合では、2トップの後ろにストイコビッチを配置する4-3-1-2が試された。しかしキャンプでは、彼を2トップの一角に組み込む4-4-2が一貫して採用されていた。
当時のJリーグでは、4-4-2を採用するチームは決して少なくなかった。しかしその多くは、中盤を2人の攻撃的MFとダブルボランチで構成する、「中盤がボックス型の4-4-2」だった。
一方で、ベンゲルが導入したのは、ミランを筆頭に当時のヨーロッパの多くのチームが採用していた、MFが横一線に並ぶ「中盤がフラットな4-4-2」だった。中西は、「それについて、ベンゲルから納得のいく説明があったんです」と証言する。
ベンゲルの説明はこうだった。
ペナルティエリアの両サイドのラインを基準にグラウンドを縦に3分割して、左サイド、中央、右サイドに分ける。そうすると、面積の割合は左サイドが20%、中央が60%、右サイドが20%になる。
20%の左サイドのエリアには左サイドバックと左サイドハーフを置き、右サイドも同じく2人を置く。残った60%の中央のエリアには2人のセンターバック、2人のセンターハーフ、2トップの合計6人がいる。
「だから、守備のバランスは4-4-2が一番いいんだ、と」
2月19日、ブルガリアの強豪レフスキ・ソフィアとの一戦はトーレスと森山泰行のゴールで2-1と勝利し、ロシアの名門ロコモティフ・モスクワ戦はストイコビッチのゴールで追いついて1-1のドロー。トヨタカップを2度制したことがあるサンパウロとのゲームは米倉誠、森山のゴールで2-1とモノにし、最高の結果でプレシーズンマッチを終えた。
この結果にはベンゲルも「まだ満足のいく内容ではないが、一流クラブに勝ったことで、さらに選手は自信をつけた」と笑顔を覗かせた。
ところが、2週間後に開幕するリーグ戦で待っていたのは、前年以上の低迷だった。
(つづく)