もうかれこれ1年以上も前に掲載したハリマヤシューズの記事について、編集部に1本の電話がかかってきたのは、東京が寒波に見舞われて凍てつく日のことだった。 応対に出た編集長に、電話の主は声を震わせて憤(いきどお)りを訴えた。「ハリマヤの歴…

 もうかれこれ1年以上も前に掲載したハリマヤシューズの記事について、編集部に1本の電話がかかってきたのは、東京が寒波に見舞われて凍てつく日のことだった。

 応対に出た編集長に、電話の主は声を震わせて憤(いきどお)りを訴えた。

「ハリマヤの歴史は黒坂辛作(くろさか しんさく)の功績ばかりではない。なぜ與田勝蔵(よだ かつぞう)について一言も触れられていないのか」

 編集長は話を聞くうちに、はっと息を呑んだ。電話の向こうにいるのはハリマヤの元経営者の1人ではないだろうか。取材過程で捜し当てることができなかった、ハリマヤの最後を知る人物かもしれない。



1980年代にハリマヤが陸上専門誌に出していた広告

 明治から昭和にかけて、マラソン足袋の発明に始まり、近代的なランニングシューズメーカーへと発展を遂げたハリマヤ。小説『陸王』(池井戸潤・集英社)の出版を機に、その埋もれた存在を掘り起こす企画を提案したのは、ほかならぬ編集長自身だった。

 今から25年も前に、忽然(こつぜん)と姿を消した国産シューズメーカーの歴史をたどる取材は、そのまま日本マラソン界の源流につながり、5回にわたる連載となる。2017年に『陸王』がテレビドラマ化されてヒットすると、ネットで検索する人が増えて、ハリマヤの記事も閲覧数を大きく伸ばしていた。

 おそらくそれで記事に気づいたのだろう。それにしても、この期に及んで、なぜ元経営者は電話をかけてきたのか。倒産させてしまった会社の話をするために、わざわざ電話をしてくることなどあるのだろうか……。興味を抱いた編集長は、その人物と会って話を聞く約束を取りつけた。

 数日後、待ち合わせ場所に現れた70代半ばの男性は、與田勝蔵の長男にしてハリマヤ3代目社長、與田誠一だった。

 そもそも與田勝蔵とはいったい誰なのか。少し説明が必要だろう。

 1903年(明治36年)、東京・大塚でハリマヤ足袋店を創業した黒坂辛作には二男二女の子供がいた。一方で妻の実家である「與田」家には跡継ぎがおらず、夫妻は與田姓を残すために長男と長女を養子にすることにした。そのため辛作の長男・勝蔵は與田勝蔵となったが、それは単に戸籍上のことで、本人はそんな事情を知ることなく他の兄弟とともに暮らし、成長した。

 驚くべきことに、勝蔵は妻をめとるまで、自分が與田姓であることを知らずにいたという。だが、当時の日本ではこのような例も、さほど珍しいことではなかったのだ。

 勝蔵は1923年(大正12年)に学業を終えると、マラソン足袋をつくる辛作の跡取りとして家業に入った。不幸なことに辛作は事故で足を不自由にしてしまい、辛作の代わりに箱根駅伝やマラソン大会の現場に出向くのも勝蔵の仕事となっていった。

 家業を通じて、勝蔵は自然と”日本マラソン界の祖”と呼ばれる名ランナー・金栗四三(かなぐり しそう)との関わりを深めていく。辛作にマラソン足袋をつくらせた金栗は、日本が初めて参加した1912年(明治45年)ストックホルム五輪のマラソン代表選手で、グリコのマークのモデルであり、箱根駅伝の創始者でもあり、今も大会MVPの「金栗四三杯」にその名を残している。

 勝蔵は仕事に没頭するなかで、いずれ自分も辛作のマラソン足袋のように長く人々に愛されるものをつくりたいと、自分の将来を思い描いた。



1936年の新聞に掲載された黒坂辛作(右)、與田勝蔵の親子

 終戦から3年たった1948年(昭和23年)、辛作は長男に家督を譲り、事業も「ハリマヤ運動用品株式会社」と改めて、與田勝蔵が社長となった。辛作68歳、勝蔵43歳のときである。戦後、人々のスタイルが和装から洋装へと様変わりするなか、勝蔵もマラソン足袋からマラソンシューズの製造へ舵を切ろうとしたのだ。

 ちょうどその頃、四男一女に恵まれていた勝蔵の一家は辛作の家から独立し、東京・護国寺のかつて武家屋敷だった古い一軒家に移り住む。広い家には客間があり、そこには金栗四三が熊本から上京するたびに寄宿するようになった。

 誠一が当時を回想する。

「私が8歳の頃からずっと、金栗先生がウチにいるのが当たり前のような生活でした。長いときは1年のうち10カ月もいた覚えがあります。先生が滞在していると、私たちも朝6時に叩き起こされて、護国寺の境内や雑司ヶ谷の墓地の周りを2kmから3kmほど走らされてね。先生は真冬でも冷たい水をザブザブ浴びて、乾布摩擦(かんぷまさつ)をされるんです」

 金栗は幼い誠一をわざわざ地方の陸上競技大会に連れて行ったり、富士山登山に誘ったりした。ある年には金栗の熊本の家に連れ帰ったこともあるという。熊本では飼っていたヤギの乳を勧められたが、子供の誠一にとっては臭くてとても飲めたものではなかった。

「ばかもん、ヤギの乳も飲めんのか!」

 そのときばかりは鼻をつままれて無理やり飲まされたが、誠一の記憶に残るのは、いつも自分を可愛がってくれる優しい金栗の姿だった。

 熊本に家族を残したまま、なぜ金栗は東京の勝蔵の家を頻繁に訪れ、長期にわたって滞在しなければならなかったのだろうか。

 戦争によって国際舞台から遠ざかっていた日本マラソン界を立て直すために、金栗は「日本マラソン連盟」を発足させて、その会長におさまっていた。日本各地で競技大会を開催し、長距離向きの選手を発掘しては、強化合宿に呼び寄せた。

 しかし、敗戦国でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下にあった日本は、1948年(昭和23年)のロンドン五輪への参加が認められなかった。そこで金栗はオリンピックに次いで歴史のあるマラソンのメジャー大会、ボストンマラソンへの参加をアメリカの大会本部と交渉して認めさせた。

 ところが今度は、せっかく国際大会への参加が認められたというのに、選手団を海外に派遣する金がない。遠征費用を捻出するために、日本陸連にかけ合ったり寄付集めに奔走したり、東京での仕事が次から次へと降りかかり、金栗は熊本に帰れない日々が続くのだった。

 こうした上京の折に、勝蔵と金栗は国産マラソンシューズ開発について議論を重ねた。

 勝蔵は家業に入った頃から常に枕元にノートと鉛筆を置いて、眠りに落ちるまで思考をめぐらせ、夜中でもアイデアが浮かぶとすぐに書きとめた。1919年(大正8年)に発売された辛作の金栗マラソン足袋が戦後まで長く愛され続けたのも、勝蔵によってゴム底の滑り止めや靴ひもの締めつけに改良が重ねられたからだろう。

 勝蔵は15歳年上で陸上界の重鎮でもある金栗の意見を踏まえつつ、ついに1950年(昭和25年)、マラソンシューズの試作品第1号を完成させた。
 
 翌1951年(昭和26年)、金栗は念願だったボストンマラソンに選手4名を送り込み、田中茂樹が期待に応えて見事優勝を果たした。

 ただし、このときの田中は”マラソン足袋”で快挙を成し遂げている。

 マラソンシューズが出来上がっていたはずなのに、なぜマラソン足袋で走ったのだろうか。

「先がすぼまったシューズの履き心地にまだ慣れず、窮屈に感じたのかもしれません。当時の日本人の足型は草履や下駄を履いていたせいで、足先にいくほど扇型に広がって、親指が大きかった。そのため、田中選手は親指が独立した二股のマラソン足袋を選んだのでしょう」

 そう語る誠一の推測は、あながち外れていないだろう。

 その2年後、再びボストンマラソンに選手団を送り込んだ金栗は、愛弟子である山田敬蔵に、国産初のマラソンシューズ「カナグリシューズ」を履かせてレースに挑むことにした。

 マラソン足袋でいくか、それともシューズでいくか。

 金栗にとってこの選択は、大きな賭けだった。もしここで惨敗するようなことになれば、日本マラソン界はせっかくここまで積み上げてきた実績を失ってしまう。そして、勝蔵にとってもそれは、ハリマヤの社運を賭けた大一番となった。

 金栗と勝蔵の2人はこの賭けに勝った。日本人の足型に合わせて”しゃもじ”のように大きく膨らんだシューズで、山田は2年前の田中の記録を10分近くも縮める、当時の世界最高記録で優勝という偉業を達成したのだ。

 黒坂辛作がつくった金栗マラソン足袋と、それをもとに息子・與田勝蔵がつくったカナグリシューズ。名声や栄光という意味では、この頃がハリマヤの絶頂だったのかもしれない。やがて高度経済成長期を迎え、”戦後”が遠くなるにつれて日本社会は豊かになり、人々がシューズに求める要素も、よりファッション性の高いものに変化していった。

 スポーツ用品店にはきらびやかな海外ブランドと日本の大手メーカー製シューズがズラリと並び、派手な色使いやデザインで消費者の購買意欲を刺激した。そのなかに入れば埋没してしまうハリマヤは、実直に機能性を追求することに活路を見出し、「陸上部員御用達」「部活のシューズ」といった趣(おもむき)を強めていく。

 それでもハリマヤは根強いファンに愛され、地味ながらも堅調に見えた。勝蔵から誠一に社長が代替わりすると、新潟に生産工場を設けて、体育シューズなど学用品にも販路を広げていく。

 そこにバブルがやってきた。

 ハリマヤ末期の事業は誠一を含む男兄弟3人で経営していたが、バブル景気のさなか、銀行が次々と持ってくる融資話に乗って一族は不動産、ホテル、飲食業など新しい事業に手を出した。それぞれ、勝算や思惑はあったのだろう。しかし、バブルがはじけたとたんに、すべては消えてなくなった。

 誠一が編集長に語った、ハリマヤが倒産に至るまでの苦境や親族間の相克について、ここに詳細は記さない。ただ、自分は経営者としては成功できなかったが、それでもハリマヤを救うために必死で頭を下げて奔走したこと、そしてハリマヤをなくしてしまったことを心から残念に感じていることはひしひしと伝わってきた。
 
 財産も家もすべて失い、今は公営の賃貸に暮らすという誠一は、しみじみとこう語る。

「私は新しいシューズのアイデアを出したり、職人たちと一緒に創意工夫をしたり、ものをつくるのが何よりも好きでした。本当は経営じゃなくて、そっちをずっとやっていたかった……」

 黒坂辛作に始まり、與田勝蔵、そして誠一と受け継がれたものづくりの遺伝子は、わずか140gの世界最軽量マラソンシューズなど、画期的な製品を世に送り出した。

 別れ際に、誠一は編集長にこんなことを言った。

「ハリマヤ製品には、長らく父・勝蔵がデザインしたロゴが、シューズのタンの部分やソールの裏底につけられていました。そこには祖父・黒坂辛作に負けまいと家業に励んだ父の自負心が込められているのです」

 ひらがなで與田の「よ」を模したそのロゴは、それが「與田勝蔵がつくったシューズ」であることを静かに物語っていた。

(敬称略)


ハリマヤで使われたロゴ。マークが

「よ」に見える(写真提供・オリンピアサンワーズ)