私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第4回世界で一番悲しいVゴールを決めた男~福田正博(1)“事件&…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第4回
世界で一番悲しいVゴールを決めた男~福田正博(1)

“事件”が起きたのは、1999年11月27日だった。

 J1リーグ最終節となるセカンドステージ第15節。J2降格の可能性があったジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)、浦和レッドダイヤモンズ、アビスパ福岡がそれぞれ激しい戦いを繰り広げていた。そのうち、浦和の試合は延長に突入していた。

 延長戦後半1分だった。

 小野伸二のショートコーナーからボールを受けたゼリコ・ペトロビッチは、2度切り返して中央へクロスを入れた。サンフレッチェ広島のDF陣は動けずに、ボールを見送った。その合間を突いた浦和の福田正博は、右足できっちり合わせてゴールを決めた。

 劇的なVゴール(※)だった。いつもなら、真っ赤なスタンドは大いに盛り上がっただろう。ピッチ上でも、ゴールを決めた福田を中心に歓喜の輪ができていたはずだ。
※延長戦(前後半15分ずつ)に突入後、どちらかのチームが得点した時点で試合が終了し、得点を挙げたチームを勝者とするもの。J1リーグでは2002年まで採用。このシーズンからPK戦は廃止され、勝ち点は90分勝利=3、延長Vゴール勝利=2、引き分け=1。

 しかし、このときはスタンドが一瞬沸いたものの、その声は急速にしぼんで異様な空気に包まれた。

 ゴールを決めた福田も、その瞬間にうなだれた。他の選手たちもピッチ上で肩をがっくりと落としていた。そんな中、DFの池田学だけがゴールを決めたエースに抱きついた。福田は無表情のまま、その手を荒く振り払った。

 ピッチを歩いていると、ポロポロと涙がこぼれてきた。

「あのゴールには、何の意味もなかった。だって、もうすべてが決まっていたからね」

 福田はあの場にいたときのような、憂鬱そうな表情でそう言った。延長戦を前に、すでに浦和のJ2降格は決まっていたのである――。

 遡(さかのぼ)れば、このシーズン、浦和に最初の暗雲が漂い始めたのはファーストステージの中盤からだった。

 浦和はその前年から原博実監督が指揮を執り、福田をはじめ、新人の小野、外国人選手のチキ・ベギリスタインやペトロビッチらの活躍によって、同シーズン(1998年)はファーストステージ7位、セカンドステージでは3位という好成績を残した。そして、迎えた1999年シーズンは、その戦力を維持して、ステージ優勝、さらには年間優勝を目標としてスタートを切った。

 ところが、小野がワールドユース(現U-20W杯)出場のため、およそ1カ月間チームを離れた。さらに、攻撃の軸となるベギリスタインやペトロビッチも負傷などによって戦列を離れることが多く、戦力が著しく低下。第7節からの9試合は1勝1分け7敗と惨たんたる結果に終わり、ファーストステージは13位と低迷した。

 その成績にフロントは危機感を抱いた。

 この1999年シーズンから、JリーグはJ1、J2の2部制がスタート。同シーズンの規定ではJ1の16チーム中、年間順位で15位以下の2チームが、J2に自動降格することになっていたからだ。

 そこでフロントは、原監督を解任したのである。

 新たに招聘した指揮官は、オランダのアヤックスやベルギーのアンデルレヒトなどで実績を残してきたア・デモス監督(オランダ)だった。

 福田は、ペトロビッチから「古いタイプの監督」という情報を得ていたが、その本当の意味を知るのはもう少し先の話になる。



原博実監督が解任され、新たに招聘されたア・デモス監督。photo by Yamazoe Toshio

 ア・デモス監督は、選手を徹底的に管理し、FW永井雄一郎ら若い選手を積極的に起用するなどしてスタメンに変化をつけた。しかし、どん底だったファーストステージから、流れが一変することはなく、セカンドステージも開幕から4連敗を喫した。

 その後、第5節のセレッソ大阪には勝利してひと息ついたが、第6節のジュビロ磐田戦から第9節の名古屋グランパス戦まで再び4連敗。チームはここから、J2降格へ、ゆっくりと坂道を転がり始めたのである。

 福田が語る。

「磐田戦から名古屋戦までの4試合はすべてVゴール負け。あのときは、さすがにチーム内も『まずいな』という雰囲気になった。

(ア・デモス)監督もチームを立て直すために、いろいろなことを考えていたと思う。それは、ミーティングで話を聞いていてもよくわかったし、監督が言うことは説得力があった。

 ただ、仕方がないことだけど、Vゴールに対する意識が低かった。引き分けというプランは持っていて、Vゴール負けした4試合でも90分間はプランどおりにしっかりと戦えて、その点では成功している。結局、監督としての経験値は高かったけど、この(Vゴールという)ルールでの経験値が足りなかった。Vゴールで勝つための方策も持っていなかったように思う。

 まあでも、J2に降格するとか、そういう危機感はまだ(自分は)抱いていなかった」

 ア・デモス監督が指揮していた欧州各国では、国内のリーグ戦でVゴールという概念もなければ、ルールもなかった。90分間の勝負に死力を尽くし、その中でいかに勝ち点を拾うか、それだけを考えればよかった。

 そのため、Vゴール方式では今までやってきたことが通用しないケースが出てくる。選手交代やそのタイミングを決断することはそのひとつで、Vゴールを知らなければ、そこでミスをしてしまう可能性が大きくなる。福田が言うとおり、4試合連続の延長Vゴール負けは、ア・デモス監督のルール上での”経験のなさ”が招いた結果とも言えるだろう。

 この4連敗の最中、福田はスタメンの座を失った。屈辱的なことではあったが、セカンドステージでは8試合を終えて1ゴール。自他ともに満足できるような結果を出せておらず、監督からの風当たりが強くなりつつあることは自覚していた。納得はできなかったが、反面、「仕方がないな」と思うところもあった。

「スタメン落ちの雰囲気は(自分でも)なんとなく感じていた。実際、結果が出ていなかったからね。それでも、4連敗を喫したあとの(第10節の)ガンバ大阪戦で、(先発の)FW盛田(剛平)がケガをして、すぐに自分が(交代で)ピッチに入って1点を決めた。結果を出したし、チームも勝って(2-1)、これで(チームも自らの立場も)『なんとか大丈夫だな』と思っていたんだけど……」

 続く第11節のヴィッセル神戸戦、そんな福田の思惑は粉々に打ち砕かれた。スタメン復帰どころか、ベンチ外という非情な通告を受けたのだ。

 そのとき、ペトロビッチがこう声をかけてきた。

「フクダ、ケガでもしたのか?」

 福田は一瞬、言葉を失いかけたが、はっきりとこう返答した。

「いや、どこもケガはしていない。なぜベンチ外なのか、意味がわからない」

 それに対してペトロビッチは、「なぜ(チームで)一番点を取っている選手が試合に出られないんだ!?」と言ってタメ息を漏らし、複雑な表情を見せた。

 セカンドステージこそ10試合を終えて2得点だったが、ファーストステージで福田はチームトップの8得点を記録していた。外国人選手の感覚からすれば、結果を出している選手が優先されるのは当たり前。それだけに、ケガもしておらず、調子が悪いわけでもない福田が、スタメンでもなく、ましてベンチにもいないことがペトロビッチにはまったく理解できなかった。

 ア・デモス監督は、福田の代わりに岡野雅行と大柴健二を2トップで起用。追加登録されたばかりのDFフェルナンド・ピクンやDF中谷勇介らを先発で使って、福田はベンチからも漏れた。

 その試合、チームはガンバ戦に勝った勢いも失って、0-2で敗れた。試合後、対戦相手の指揮官である神戸の川勝良一監督が福田のもとにやってきた。そして、川勝監督はこう言った。

「点が取れる選手は限られている。俺は(ア・デモス監督が)なぜおまえを使わないのかわからないけど、ウチとしては、おまえが試合に出なくて助かったよ」

 福田はこのとき初めて、ア・デモス監督との間に埋めようのない”溝”があることを感じた。

「ガンバ戦で(自ら)結果を出して勝った。そのあとの大事な試合でベンチ外というのは、正直すごくショックだったし、自分の中で消化し切れないものがあった。それでも試合に勝っていれば、ベンチ外も受け入れることができたかもしれないけど、内容がひどくて……。しかも、0-2と完敗。『ふざけんな』って思ったよ。

 この神戸戦が(自分と)監督との距離が離れたポイントになった。もちろん、ベンチから外された俺にもセカンドステージで結果を出せていなかった責任はあるよ。でも、あのとき感じた本音を言わせてもらえば、対戦相手の監督にあんなことを言われているようじゃあ、『勝てないな』って思った」

 神戸戦の前、ア・デモス監督はミーティングで「この試合を含めて、残り5試合が勝負になる」と語った。だが、その大事な5試合の初戦を落としてしまい、チーム内の空気が一変した。重苦しい雰囲気となり、もうひとつも落とせない――そんな悲壮感が監督の態度や表情からも漂い始め、それまではなかった危機感がチーム全体に充満し始めた。

 残り4試合は、ひとつも負けられない戦いとなった。そこから意地を見せたのは、福田だった。

 監督との距離は感じつつも、”エース”としての自負があった。ア・デモス監督と違って、福田は長年レッズの一員として奮闘し、「ミスター・レッズ」と称される存在である。愛着のあるチームの危機に、奮起しないわけがなかった。

 神戸戦のあと、続く市原戦で先発復帰すると、決勝ゴールを決めた。さらに次のベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦でも、1ゴールを決めて2-0の勝利に貢献した。

「監督を見返してやる。自分がチームを助ける。その思いだけだった」

 市原戦、平塚戦と連勝し、浦和は自動降格圏から脱出して順位は14位に上がった。チーム内も重苦しい雰囲気から少し解放されて、選手たちも「残り2試合勝って、残留するぞ」という前向きな姿勢を見せるようになった。

 サポーターたちの雰囲気も変わった。

 神戸戦までは「なにやってんだ!」「こんなんでいいのか!」といった罵声が飛び交い、チームにプレッシャーをかけていたが、次第に「どうにかしないといけない」といった空気に変わって、「(選手たちと)一緒に戦おう!」という一体感が生まれるようになった。

 そして迎えた第14節のヴェルディ川崎戦。終始リードする展開だったが、試合終了間際に追いつかれ、延長戦でも決着がつかず、2-2の引き分けに終わった。それでも、勝ち点1を拾って、福田は「残留への光が見えた」と思ったという。

「勝てなかったけど、引き分けたことで(勝ち点1を得て)、これでなんとかイケるかなと思った」

 川崎戦を終えたあと、チームはそのままJヴィレッジに向かった。ア・デモス監督は、重要な最終節を前にして、メディアなどすべてを完全にシャットアウトして、練習に集中したかったからだ。実際、選手たちも最終戦の広島戦に向けて集中して練習ができたという。

 そして、万全の準備を整えて、チームは試合の前日に浦和に戻り、ホテルに前泊した。

 いよいよ明日、広島に勝てばJ1に残留できる──が、福田の胸中は不安でいっぱいだった……。

(つづく)