【第25回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」


現役時代の

「破天荒」大剛鉄之助

 大相撲からプロレス界に飛び込んだ大剛鉄之助(だいごう・てつのすけ)は、鬼気迫るファイトでコアなファンを魅了した。国際プロレスでも暴れまわり、武者修行先のカナダでも活躍したが、凱旋帰国直前に交通事故に遭い、右足を切断する重傷を負う。レスラーとして引退を余儀なくされた後は、マッチメイク担当や渉外担当として多くの外国人レスラーを日本へ送り込む一方、カナダに遠征してくる若手も育て上げた。カナダ遠征でもお世話になったアニマル浜口が、一般にはあまり知られていない大剛の魅力を伝える。

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「狂気をはらんだ破天荒」大剛鉄之助(1)

「吉原功(よしはら・いさお)社長というのは度量が大きく、選手を伸び伸びと育てましたから、国際プロレスには他団体と比べて個性的なクセのある選手が多かったです。そのなかでも、ものすごく個性が強かったのは大剛鉄之助さんでしょうね。他には決していない、破天荒な人でしたよ。酒の呑み方はハンパないし、とにかくケンカっぱやくて、何をしでかすかわからない危険性を秘めていました」

 アニマル浜口は先輩・大剛鉄之助のことをそう語ったが、当時のレスラー仲間や関係者たちも異口同音に「大剛は気性が荒かった」と話す。また、雑誌などの紹介記事には必ずと言っていいほど、「ケンカが強い」と書かれていた。実際、自分の試合だけでなく、国際プロレス所属のレスラーに不利な判定が下ったときなど、レフェリーに食ってかかるというのは日常茶飯事だったようだ。

「でも、それは裏を返せば、プロレスラーとしては”いいもの”を持っているということでね。ヤワじゃない。何と言うかな、戦国武将のような風格がありましたよ。

 その反面、1972年3月に僕が初めての海外遠征でアメリカへ武者修行に行くときには、『これを着ていけ』と高級なスーツを作ってくれてね。そういう優しさもあり、僕は若手のころからずいぶんと可愛がってもらいました」

 大剛鉄之助――本名・栄田幸弘(さかえだ・ゆきひろ)は1942年3月10日生まれ。プロフィールなどでは宮城県仙台市出身となっているが、樺太(からふと)の落合町で生まれ、戦後に仙台へ引き上げてきたと言われている。

 1958年に大相撲・湊川(みなとがわ)部屋へ入門し、翌年に本名の栄田の四股名で初土俵を踏んだ。その後、1962年に部屋ごと吸収される形で二所ノ関部屋へ移籍。四股名を栄岩(さかえいわ)、仙台と改めて幕下上位まで進むも、1966年の5月場所かぎりで廃業し、設立したばかりの東京プロレスに入団する。同期には寺西勇、永源遥(えいげん・はるか)、のちにフィリピンでプロレス団体を設立した大磯武らがいた。

 同じ大相撲出身の先輩・豊登(とよのぼり)に仙台強(せんだい・つよし)と名付けられ、1966年10月12日に蔵前国技館で行なわれた東京プロレス旗揚げ戦でデビュー。東京プロレス崩壊後はラッシャー木村、寺西、大磯とともに国際プロレスに移り、リングネームを大剛鉄之助と改めると、前座ながら過激なファイトで人気を集めた。

 その後、AWA世界ヘビー級チャンピオンのマッドドッグ・バションに実力を認められた大剛は、1973年3月17日にバションが主戦場とするカナダへ遠征する。大剛は現地で「トーキョー・ジョー」と名乗り、モントリオールを中心に暴れ回った。

「大剛さんは大相撲から来られたので、身体は大きくないけど(174cm)、もともと立ち技が強い。そこへもってきてカナダで、日本では『岩石男』と呼ばれた最強伝説も残るジョージ・ゴーディエンコにガンガン指導されたみたいです。

 でも、大剛さんの強さ、すごさを説明するには、まずは若木竹丸さんの話をさせてください」

 浜口が言う若木竹丸とは、ボディビルを我が国に広めた「日本ボディビル界の父」であり、「昭和の怪物」と呼ばれた人物である。

(つづく)
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