2017年引退特集加地亮インタビュー(後編)引退する真意を語るインタビュー前編はこちら> 2000年から2年間所属し…
2017年引退特集
加地亮インタビュー(後編)
引退する真意を語るインタビュー前編はこちら>
2000年から2年間所属していたJ2の大分トリニータで、「プロサッカー選手としての基盤ができた」という加地亮。そこから、彼は一気にスターダムへと駆け上がっていく。
ガンバに移籍して最初の2、3年……
いや、5年くらいまで、
まったく余裕なくサッカーをしていた
2002年、J1のFC東京に移籍。加入して半年は、トップチームとサテライトチームを行き来していたが、実はそのときのトップチームのコーチが、加地の現役最後の所属先となったファジアーノ岡山の長澤徹監督だった。加地は長澤コーチと毎日のようにプレーについて対話し、居残り練習を繰り返した結果、圧巻のフィジカル、運動量を備えるようになった。そして、それらを次第にプレーでも生かせるようになっていった。
そうした成長に伴って、同年の夏過ぎにはトップチームでレギュラーの座を確保。すると、翌2003年10月には日本代表に初選出されて、10月8日のチュニジア戦で国際Aマッチデビューを果たす。以降、不動の右サイドバックとして日本代表に定着した。
「日本代表選出は、自分でも驚きでした。ただ正直、その頃にはすでに根拠のない自信が備わっていたというか。大分での2年間のおかげか、FC東京に移籍したときから『僕はもっとできる。やれば絶対に結果を残せる』という自信があった。その頃はまだ、サテライトとトップチームを行き来していたんですけどね(笑)。
実際、嫁には『今、日本代表は右サイドバックが手薄だからチャンスだ』って言い続けていました(笑)。そしたら、本当に選出されて……となると『もっともっと』と欲が強くなり、その気持ちに背中を押されて、やることも、やりたいこともどんどん増えていった。そうした積み重ねが”結果”として表れ始めたことも、自信をより膨らませてくれたんだと思います」
右肩上がりでの成長を続ける中で、再び新天地を求めたのが、2006年。移籍先は、ガンバ大阪だ。
FC東京への移籍を決めたときと同様、「新たな環境で、新たな自分に出会うため」の決断だった。加えて、カウンター重視のFC東京とは対照的な、ガンバのテクニックを生かしたパスサッカー、攻撃サッカーに魅力を感じて移籍を決めた。
そのガンバでの時間は、彼の予想を上回る、8年半もの月日を数えることになる。”理想の自分”になるのに、時間がかかったことがその理由だった。
「加入してすぐの年から試合に出してもらっていたけど、正直、ガンバのサッカーに入っていくのに、かなりの時間を要しました。というのも、当時のガンバには、ヤット(遠藤保仁)やフタ(二川孝広/東京ヴェルディ)、ミョウさん(明神智和/長野パルセイロ)やハッシー(橋本英郎/東京ヴェルディ)ら、センスの塊みたいな選手が集まっていましたからね。
なかでも、彼らが備えていたプレーの”落ち着き”や”余裕”は、何よりも羨(うらや)んだ部分です。(それらのことを)どう表現すればいいのか……、最後の最後でプレーの選択を変えられる落ち着きというか、相手のプレッシャーをギリギリまで見極めたうえで、スッと選択を変えられるセンスというか。あれを僕自身も培わなければ、ガンバのサッカーには一生入っていけないと感じていたこともあり、とにかくそれらを身につけようと必死だった。
しかも、そこに加えて『タイトルを獲って当たり前』というプレッシャーもありましたからね。正直、当時はほんまにしんどくて、最初の2、3年……いや、5年くらいまで、まったく余裕なくサッカーをしていました」
当時は、すでに日本代表選手としてもその中心で輝いていたことを思えば意外な言葉だが、その苦しみが彼の中でマックスに達していたのは事実だろう。

日本代表でも不動の右サイドバックとして活躍していたが......
その証拠に加地は、2008年5月、自ら日本代表からの引退を宣言する。まだまだ成長途上にある、28歳でのことだった。
「当時は、本当の意味で『ガンバのサッカーの一員になりたい』という思いと、日本代表という別次元のプレッシャーとの間で、かなりアップアップの状態でした。このまま両方を並行して戦っていたら、自分が壊れてしまうというか……。
そうした状況の中で、ガンバに来て新たなレベルを感じたことで、さらに強くなった『もっとうまくなりたい』という欲も保てなくなってしまうと感じて、それならば『チームでのプレーに集中しよう』と、代表から退くことを決めました」
その決断は確かに、加地を苦しみから解放することにつながった。特に2010年前後になって、ようやく『ガンバの一員としてプレーできている』感を抱けるようになってからは、彼の中で再びサッカーの楽しさを実感する日々が蘇(よみがえ)っていった。
現に、その当時の加地からは「1対1の状況になっても、相手に抜かれる気がしない」という自信に満ちた言葉がよく聞かれた。その言葉の真意を改めて本人に尋ねると、こんな言葉が返ってきた。
「あの頃が本当に一番、純粋にサッカーを楽しめていたと思います。”タイトル”というプレッシャーはありながらも、それを上回る自信を備えられるようになったことで、プレーにも余裕が生まれていた。
そもそもディフェンダーって、SかMかで言えば”M”で受身のポジションだけど、当時の僕は気持ち的には完全に(相手よりも)上に立って、『来るなら来いよ』的なプレーができていましたしね。今振り返っても、プロサッカー選手としての充実感をすごく味わえていた時期でした」
最後の最後までチームメイトと
切磋琢磨しながらサッカーができて、
本当に幸せでした
そうして、心からサッカーを楽しめるようになった加地は、以降の人生でも常に、その”楽しむこと”を第一に考えた選択をするようになる。2014年6月に、かねてからの夢だった海外移籍を実現するべく、アメリカ・メジャーリーグサッカーのチーヴァスUSAに完全移籍をしたのも、そのひとつだ。
結果的にその挑戦は半年に終わったが、そこでの時間によって新たなサッカー観を備えられたことは、2015年にJ2のファジアーノ岡山に移籍するうえでも、大きな力となった。
「まさかのチームの解散に伴って、チーヴァスでのプレーは半年に終わりましたが、現地の緩やかな雰囲気に触れ、『リラックスしてサッカーに向き合う必要性』を感じられたことは、プロキャリアの後半を過ごすうえで、貴重な時間となりました。
と同時に、その経験は岡山という発展途上にあるチームでプレーするうえでもすごく役に立ったというか。チーヴァスに行っていなければ、もしかしたら自分の経験値を(岡山のチームメイトに)押しつけるばかりになっていたかもしれない。それでは、周りも萎縮していたはず。
でも、(チーヴァスに行ったことで)チームのレベル、選手の質を踏まえて、まずは自分を変化させることを考えた。そのうえで、仲間に言葉を掛けられるようになったこと、信頼関係を築けたことは、僕にとっても大きな財産になりました」
もっとも”J1昇格”という目標を実現したいと考えればこそ、これまでどおり、「ピッチでは身をもって自らの考え、姿勢を示すこと」も忘れなかった。
そのために、前編の冒頭で記したような”戦える自分”を保つための準備を重ねた。いや、キャリアを積むにつれ、その準備はより綿密になり、気がつけば、岡山時代のクラブハウスへの到着時間は、ガンバ時代の約2時間半前を大きく上回る、4時間前になっていたと聞く。
また、彼自身が常に欲してきた「うまくなりたい」という欲にも衰えはなく、練習後にもほぼ毎日、スポーツジムに赴(おもむ)いてパーソナルトレーナーとのプラスアルファのトレーニングを続けた。
そうして最後の最後まで全身全霊をサッカーに捧げ、走り抜いた20年。その時間を振り返り、「微塵も後悔はない」と加地は言い切る。
「プロになったときは、せいぜいやれて10年と思っていました。FC東京時代に少し自分に光が見え始めたときでさえ、30歳までやれたら十分だな、と。それが、結果的に20年ですから。しかも、最後の最後までチームメイトと切磋琢磨しながらサッカーができて、悔いなく戦い切ることができて、本当に幸せでした。
僕に関わってくれた人たち、常に僕に生活を合わせて支えてくれた家族に、心から感謝しています。サッカー……最高です!」
そう言って笑った表情は、その胸の内を示すかのように一点の曇りもなく、これまでのキャリアで幾度となく目の当たりにしてきた輝きに満ちていた。
加地亮(かじ・あきら)
1980年1月13日生まれ。兵庫県出身。2006年ドイツW杯に出場するなど、日本代表でも活躍したサイドバック。滝川第二高校→セレッソ大阪→大分トリニータ→FC東京→ガンバ大阪→チーヴァスUSA(アメリカ)→ファジアーノ岡山