サーフカルチャー誌『ザ・サーファーズ・ジャーナル・ジャパン』Vol.16 No.3に掲載のインタビュー「Ken Koshizoe and Shuhei Okada」が、YouTubeでも公開された。大阪でサーフショップを営む腰添 健と、千葉・和田でジェイズサーフショップを営む岡田 修平が、バブル期から現在までの日本サーフィン界の変遷を語り合う。
笑いと本音で語る、サーフィン今昔話
1978年と’82年、ふたりのショップ開業対談は、1970年代後期から80年代初頭のサーフィンブームを背景に始まる。当時はウエストコーストや海といった記号が若者に広がり、日本のサーフィン業界は好景気に沸いていた。
腰添は1978年に大阪で「ナチュラルアート」(のちに「ザ・ブルー」に改称)を開業した。長年ジャッジを務め、ハワイのパイプマスターズに日本人として初めてジャッジ参加した人物で、JPSAの理事長も務めた。今は経営を2代目に任せ、創業者という立場にある。
岡田は、東京で会社員をしたのち、生まれ育った和田に戻った。最初は駅前にある祖母のたばこ屋の半分を借りて、サーフショップを始めた。ショップは今では南房総のランドマーク的な存在で、ほぼ毎日更新するブログ『波声人語』でも知られる。
年商1億円超の店もあったバブル期話題は当時の景気の良さに及ぶ。腰添によれば、年商数千万円の店はそこそこあり、1億円を超える店もあった。岡田も、ブランドの営業マンが段ボール3箱分の商品を送ってくると、ひと夏でほとんど売れたと振り返る。
映画『ビッグ・ウェンズデー』や雑誌の創刊、音楽やファッションを通じて、サーフィンをしない人までが西海岸を向いていた時代だった。「陸サーファー」という言葉が生まれ、プロサーファーも高い人気と収入を得ていたという。
波情報とライブカメラが変えたもの波情報の黎明期の裏話も語られる。ダイヤルQ2の波情報は、NTTの前身である電電公社の社員の企画から始まったという。岡田が当時の経緯を明かし、情報提供者とのやりとりを笑いを交えて語った。
波情報の登場で、サーフショップに電話や来店で波を尋ねる習慣はなくなった。現在はライブカメラが主役になり、ふたりは便利になった一方で、天気図を見て「とりあえず行ってみよう」としていた情緒が薄れたことにも触れている。
オリンピックとサーフィンの二極化サーフィンがオリンピック競技になったことについて、岡田は世間に認知されたことを喜びつつ、サーフィンが誤解されていないか議論が必要だと述べる。子どもの上達だけを見守る親が増えると、サーフィンの楽しさが置き去りになりかねないという懸念も示した。
腰添は、近年のサーファーを、トレーニングやコーチを重視する「アスリートサーファー」と、スタイルを重視する「スタイルサーファー」に分けて見ている。松岡慧斗のショートムービー『852 DOWN THE LINE – JAPAN -』に触れ、両者のバランスが業界を盛り上げると語った。
サーフショップの未来とこれから最後は、次世代へ何をつなぐかがテーマになる。大型商業施設ができて寂れた駅前通りでも、細々と続くラーメン屋や蕎麦屋のように、サーフショップも地域で続いていけるはずだと、ふたりは語る。
腰添は「サーフショップ、しぶとく残らなアカン!」と呼びかけ、岡田は「サーフショップオーナーを目指そうとしているあなたもがんばりましょう!」と締めくくった。
掲載誌・インタビュアー情報
『ザ・サーファーズ・ジャーナル・ジャパン』Vol.16 No.3
掲載ページ:インタビュー「Ken Koshizoe and Shuhei Okada」(誌面22〜25ページ)
インタビュー:腰添 健/岡田 修平
インタビュアー:井澤 聡朗

Illustration by Atsuo Higuchi
腰添 健(こしぞえ けん)
1978年に大阪でナチュラルアート(のちにザ・ブルーに改称)を開業。大会でのジャッジやJPSA理事長を歴任し、現在も業界のご意見番として知られる。
岡田 修平(おかだ しゅうへい)
1980年代初頭に千葉・和田でジェイズサーフショップを開業。ブログ『波声人語』を発信している。
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