サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは、あまり知られていないけど、けっこう凄いリーグについて。

■独自の発展

 1967年、アメリカの過去のプロサッカーリーグで最も有名な「北米サッカーリーグ(NASL)」が誕生する。きっかけは1966年にイングランドで開催されたワールドカップのテレビ中継だった。この大会の決勝戦が衛星を通じて初めてアメリカに生中継され、NBCで全国放送されて100万人を超す視聴者を得た。そしてサッカーへの興味が急速に高まったのだ。

 初年度の参加クラブは10。4月開幕、9月にプレーオフというスケジュールを組み、欧州のプロ選手が「オフ」の期間に参加できるようにした。アメリカ人選手を6人以上入れなければならないというルールもあったが、大半は欧州や南米、中米などの「季節労働者」のような選手たちだった。

 勝点は勝利に6、引き分けに3、そのほか、1得点につき3点まで勝点を与えるというルール。1シーズン目には全159試合で545ゴール、1試合平均3.43点という得点が生まれた。

 1972年には「35ヤード・オフサイド」のルールが施行された。35ヤード、すなわちペナルティ-エリアの倍ほどの距離にタッチラインからタッチラインまで白線を引き、オフサイドの反則が取られるのは、そこからゴールラインまでの間だけとしたのだ。守備が緩くなり、得点を増やすのが目的だった。

 欧州の有名プロ選手が参加したことでクラブ数は次第に増え、1975年には20クラブに達した。この年、NASLはさらに興味を引くために引き分けを廃止し、同点の場合には「サドンデス」方式の15分間の延長戦、それでも決勝点が生まれない場合にはPK戦(後に35ヤードラインからドリブルシュートする「シュートアウト」)で勝敗を決するというルールを採用した。1試合3点までの「得点ボーナス」は同じである。

■世界のスターが集結

 そして、この1975年にNASLの人気を大きく押し上げ、同時にアメリカにおけるサッカー発展の基礎となる大きな出来事が起こる。「ニューヨーク・コスモス」がブラジルのペレとの契約に成功したのだ。サッカー史上最高の名手として知られ、3回のワールドカップ優勝に貢献したペレは、少年期から過ごしたサントスFCで1974年に引退したが、1年後の1975年6月にアメリカでプレーを始め、世界の注目を集めた。

 コスモスは翌年にはイタリア代表FWジョルジョ・キナーリャ、さらに1977年には西ドイツ代表フランツ・ベッケンバウアーを加え、他のクラブも次々と「スーパースター」と契約してNASLは一挙に華やかな「スターリーグ」となった。1977年のプレーオフ、「フォートローダーデール・ストライカーズ」をコスモスがホームの「ジャイアンツ・スタジアム」に迎えた試合では、7万7691人というNASL史上最多観客を集めた。

 その後も、ジョージ・ベスト(北アイルランド)、ゲルト・ミュラー(西ドイツ)、ヨハン・クライフ(オランダ)などを加えて華やかさを保っていたNASLだったが、アメリカ人のスター選手は現れず、1984年のシーズンで幕を閉じた。アメリカのプロサッカーリーグは、またも水泡に帰したのである。

■静かに定着したサッカー熱

 しかし、このNASL時代は、大きな遺産を生んだ。少年少女へのサッカーの普及である。体をぶつけ合うアメリカンフットボールはあまりに危険だったため、少年少女の間でサッカーが推奨され、それまで欧州からの移民のスポーツと言われていたサッカーが、初めてアメリカ人のスポーツとなった。オランダのウィール・クーバー・コーチが考案した「クーバー・トレーニング」が採り入れられ、ボールテクニックを身につけるとともに少年少女のサッカー熱は定着した。

 少女はそのまま大学までサッカーを続けてアメリカを世界に冠たる「女子サッカー王国」とし、少年たちはやがて欧州のクラブに出ていくようになる。

 そしてNASLの消滅から3年後の1988年、FIFAは1994年のワールドカップをアメリカで開催することを決定する。FIFAにとって、世界一の経済力を持つ超大国アメリカは、地球上に残された最大の「サッカーフロンティア」だった。その市場を開拓することには、大きな意味があった。そして1994年までに新しいプロリーグを組織することを条件づけた。

 そうして生まれたのがMLSだった。予定より遅れてスタートは1996年となったが、アメリカのプロサッカーリーグとしては最も長寿となり、今年30周年を迎えた。

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