東京ヴェルディ・アカデミーの実態~プロで戦える選手が育つわけ(連載 読売クラブ時代も含め、選手として、指導者として、東京…
東京ヴェルディ・アカデミーの実態
~プロで戦える選手が育つわけ(連載
読売クラブ時代も含め、選手として、指導者として、東京ヴェルディのアカデミーに関わってきた冨樫剛一(現横浜F・マリノスユース監督)によれば、「基本的にはサッカーがうまいか、ヘタか。それでランクが決まっていく」。このクラブの物差しは、明確だった。
だからこそ、「読売に入った時は一番下だった」という冨樫は、とにかくうまくなろうと、憧れの先輩たちを目標に努力を続けた。
「ボールを取られちゃいけない。ボールをつなげられなきゃいけない。ゴールを取らなきゃいけない。裏を返せば、ゴールを取られちゃいけない。ゴール前では体を張らなきゃいけない。そのうえで、ボールを取れたらなお褒められる、みたいな。もうシンプルなことです」
読売クラブのアカデミー時代について語る菊原志郎氏
photo by Manabu Takahashi
その感覚は、飛び級でいち早くトップチームへの階段を駆け上がった、菊原志郎(現FC今治U-12監督)にとっても共通するものがあった。
「『あ、うまい!』とか『あ、すごい!』っていうのが、ざっくりと"いいもの"って感じですよね。それで(他の選手のプレーを見て)いいものをどんどん自分のなかに取り入れていくんです」
しかし、そうした競争社会に馴染めず、途中でクラブをやめていく選手も少なくなかった。
たとえば、5対2のボール回し。読売のルールでは、輪の中に入るふたりのオニは股にボールを通されると"プラス1"となって、1回ボールを奪っても交代できない。
「それで20回くらい股を抜かれて"プラス20"とかになり、1時間くらいずっと(輪の)中でディフェンスすることになった練習生が、次の日から来なくなっちゃったりしてね」
苦笑いでそう語る菊原が、述懐する。
「でも、僕らのなかでは、それが普通。読売の基準でやっていけないとだんだん来なくなる選手も多い。強い選手だけが残っていくから、強い選手同士で日々競い合う。今考えると、本当に高い基準でやっていたんだなと思います」
だが、たとえ股を20回抜かれても、決してあきらめることがなかった選手もいる。
菊原曰く、「それ、たぶんミニラとかが、そうじゃないですか」。
愛称"ミニラ"の傑物とは、現在ヴェルディのアカデミーでヘッドオブコーチングを務める中村忠である。
「そこで残ると、みんなが認めてくれるんですよ。『おまえ、たいしたもんだな』みたいになって。ヴェルディというと、技術的なうまさがすごくクローズアップされますけど、根性があるとか、食らいついていけるとか、やっぱりいいものはいいと認めてくれるから、すごいファイターも生まれてくる。
自分の特徴と照らし合わせながら、試合に出るために、生き残るために、自分はどこで勝負するべきかをみんなが考えてやるようになるんです。試合に出るのは、そんなに簡単ではなかったですから」
そこは、いわばブラジルやアルゼンチンを彷彿させる、ハングリーな競争の世界。時代はまだ、Jリーグなど影も形もなかった頃だが、菊原にとっては、そこでトップチーム昇格を目指すのが当たり前のこととなっていた。
「僕自身は中学3年の終わりのタイミングで、もうトップチームでやることが決まっていたし、ずっと(与那城)ジョージさん、ラモス(瑠偉)さん、戸塚(哲也)さんを見てきて、ああいうふうになりたい、あのなかでサッカーがしたいって、もうそれしかありませんでした。
トップチームは、僕が中2、中3の時に2年連続日本リーグで優勝していて、中2の時には、トップチームの中心選手だった小見(幸隆)さんが、選手兼任で僕らのコーチになってくれたり、ラモスさんが時々僕らのゲームにまざってくれたりして、一緒にプレーするなかでトップの基準を肌で感じられた。高校サッカーも盛り上がっていましたけど、僕の頭(のなか)ではほとんどゼロ。もう脇目を振るなんてことはなかったです」
2歳上の菊原を常に仰ぎ見ていた冨樫にとっても、その感覚はまた同じだった。
冨樫は「自分はサッカー小僧だったので、小学生の頃は選手権(全国高校サッカー選手権大会)に憧れていましたけど、読売に入って、それ以上の目標ができてしまった」と言い、こう続ける。
「当時(高校生の時にトップチームと練習試合をして)、ミルトン・クルスっていうFWのマークについたんですけど、90分で一回もボールに触れなかった。『ブラジル代表って、どんだけうまいんだよ!』みたいなレベルでサッカーをとらえていたので、もう選手権(に憧れる)とか、そんなことじゃなかったんです。
志郎はジュニアユースの時に(トップチームに)上がっていたので、ユースの試合にも出ない。それが当たり前なんだと思っていたので、早くトップチームに行きたい、行かなきゃいけないんだっていう感覚のほうが大きかったです」
(文中敬称略/つづく)