甲子園で一躍注目の太田幸司氏の進路が大きな話題に 青森県立三沢高出身で元近鉄投手の太田幸司氏(野球評論家)は1969年、…
甲子園で一躍注目の太田幸司氏の進路が大きな話題に
青森県立三沢高出身で元近鉄投手の太田幸司氏(野球評論家)は1969年、社会現象にまでなった「コーちゃんフィーバー」の“主役”だ。端正な顔立ちに松山商との夏の甲子園決勝延長18回0-0再試合での大熱投なども重なって大ブレークし“大学か、プロか”での進路問題でも大いに注目された。当時、口には出さなかったが、プロなら意中の球団があったという。それは子どもの頃から大ファンの巨人ではなく、阪神だった。
1969年の夏の甲子園で完全に火がついた太田氏人気は、大会後も継続した。最大の注目はアイドル右腕の次なる進路だった。大学なら東京六大学行きを希望していたが、プロ入りを勧める声もあり、悩みに悩んだそうだ。報道陣からの質問もこの問題に集中したが、本当に決めていないのだから答えようがなかった。そんな時に、太田氏は日大のセレクションを受けたという。それは高校3年最後の夏前などに、臨時指導をしてもらった日大・河内忠吾監督との縁でのことだった。
「別に日大に入るとかじゃなくて、河内監督に『ちょっと1回遊びに来いよ』と言われて、監督の家に泊らせていただいて、全国から来る選手がどんなレベルか、見にいくという感じだったんです。日大も強いチームなのでね」。当然の如く、これまた大騒ぎになった。「三沢高と日大の関係も知られていたので“太田は日大に行くのかぁ”となってねぇ。日大に行く気はあまりなかったのに……」。何か太田氏がアクションを起こしたらすぐ反応が出る。そんな状況のまま11月20日のドラフト会議を迎えたという。
「プロは(八百長疑惑の黒い霧事件で揺れる)西鉄以外、大学は東大以外からは一応、挨拶というか、そういうのがありましたが、(進路を)どうするかはドラフトが終わってから決めようということになっていた。プロについて周りはいろいろ言っていたけど、僕は、“プロから本当に指名されるのだろうか、こんなに騒がれて、どこも指名してくれなかったら、かっこ悪いなぁ”ってドラフト当日にも思っていましたよ」
これだけ注目されながら、事前にプロ球団側から指名確約の話は聞いていなかったという。「(各球団のスカウトなどが)挨拶で来られた時、学校の部長さんと両親だけが対応して、僕はその中に入っていませんでした。だから、そこでどんな話があったのかも、何にも知らなかったんです」。ただ、太田氏にはプロなら行きたい球団はあった。三沢市立第一中2年時に外野手から投手に転向した際から大ファンになった村山実投手がいる阪神だ。
「その強い巨人に僕が行っても…」
「やっぱり甲子園イコール阪神じゃないですか。あの頃、村山さんは現役で(1970年シーズンから)プレーイングマネジャーだったかな。それで阪神がいいなぁって思っていました。昔はそういう(希望球団の)ことはあまり言わない時代だったし、僕も何にも言っていませんでしたけどね」。まさに阪神への秘めた思いだったわけだが、その一方で「巨人はちょっと……。プロに入るなら巨人以外の方がいいなと思っていた」とも明かす。
選手は阪神・村山投手ファンで、チームは巨人ファン。それが太田氏の“スタンス”だったが、進路先となれば話は別だったという。「ドラフトの時も僕は巨人ファンでしたよ。でも、あの強い巨人に僕が行っても、そんなに出番が……って割り切っていたんです」。川上哲治監督率いる巨人はその年(1969年)V5を達成した。この先、1973年のV9まで行くが、すでに黄金時代だった巨人の戦力を冷静に見極めていたようだ。
ドラフト会議の結果は近鉄ドラフト1位。当時は予備抽選で選択指名順を決めていく方式で近鉄は6番クジで太田氏を指名した。意中の阪神はそれより前の2番クジだったが、東海大・上田二朗投手を1位指名。村山阪神入りの夢は消えた。「予備抽選の順位を聞いた時は、もしかしたら阪神もあるかもって思っていたんだけど、近鉄ってことで……」。プロは阪神でなければ嫌というわけではなかったが、近鉄は想定外の球団だった。
「1位で指名してもらった嬉しさはあったけど、近鉄に関しては“鈴木(啓示)さんって、すごいピッチャーがいるなぁ”くらいで、ほとんど何の知識もなかったんでねぇ……」。行くか、行かないか、報道陣から聞かれるたびに「五分五分です」と答える日々が続いた。また悩んだ。近鉄入りを決断するまでに時間をかけた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)