元近鉄・太田氏が明かす“伝説の決勝”のエピソード 1969年8月18日、夏の甲子園決勝、松山商(北四国)対三沢(北奥羽)…

元近鉄・太田氏が明かす“伝説の決勝”のエピソード

 1969年8月18日、夏の甲子園決勝、松山商(北四国)対三沢(北奥羽)は延長18回0-0の引き分け再試合になった。甘いマスクで人気急増中だった三沢の快速球右腕・太田幸司投手(元近鉄、巨人、阪神)は、この262球の熱投で、さらに注目を集め「コーちゃんフィーバー」が過熱。8月19日の“2試合目”は、2-4で敗れたものの、122球完投と腕を振り続けた姿もまた“悲劇のヒーロー”としてクローズアップされた。そんな“伝説の決勝”を太田氏が回顧した。

 延長10回3-2でサヨナラ勝ちした1回戦の大分商(中九州)戦が行われたのが8月12日。そこから14日の2回戦・明星(大阪)戦、16日の準々決勝・平安(京滋)戦、17日の準決勝・玉島商(東中国)戦を経て、18日の決勝・松山商戦のマウンドに太田氏は上がった。1回戦から1週間も経っていないなか、これが5試合目。すべて完投しており、準々決勝からは3連投目という状況だった。

 疲れがあって当然だが、太田氏は「絶対口には出さなかったけど、僕自身の中では、俺が投げないとこのチームは勝てない、頑張らないといけない、チームを引っ張るんだっていう気持ちで常に投げていました」と、それが当たり前と思っていたそうだ。「決勝前のミーティングは松山商のピッチャーの井上(明)の球種とかの説明くらいで細かいことは何も。『決勝まで来たからな。わかっているな。高校最後の試合、思い切り行こうぜ』みたいな感じでした」と振り返る。

「まぁ、今みたいにデータがどうとか、そんな時代じゃないし、田舎のチームですから。長嶋(茂雄)さんじゃないけど、出たとこ勝負の、その時のあれですもんね。(田辺)監督もよく言っていましたよ。『細かいことを言ってもお前らはできない。とりあえず、気後れだけはするな』ってね」。3連投もなんのその。気合は十分。太田氏はいつも通りに投げた。不思議なことに球数が増えていくほど調子が上がったという。松山商・井上投手との投げ合いが続いた。

 延長15回、三沢に1死満塁のサヨナラのチャンスがあった。打者は9番・立花五雄外野手。カウント3ボール1ストライクからの5球目はボール気味だったが、判定はストライク。「(松山商捕手の)大森(光生)が捕った時、ミットが土についていた。ベンチにいたので横から見て、よくわかったんですよ、軌道が。井上ももう手からボールが離れないような、置きにいって球が山なり。だから一瞬、低い、ボールだと思ってベンチでヨッシャーってお尻を上げかけたらストライクって……」。

 続く16回も1死満塁をつくったが、スクイズを外されて得点できなかった。「あれもね、スクイズを外されて(捕手が)サードに投げました。タイミングはアウト。でもボールがポーンって出ていたんですよ。セーフなんですよ。あの頃は抗議もしたらいけないとか、そんな時代だからね。だから“2イニング続けて疑惑のジャッジだ”って、勝手にそんなことを言っていたけどね。まぁあれは俺らに悪い方へ出たけど、どこも同じ条件。そういうのがあるのも野球の面白さでもあったんだけどね」と、太田氏は懐かしそうに笑いながら話した。

 そんな中「“ピッチングとはこれだな”っていうのを感じた試合でもあった」とも明かす。「前半の9回とかはまだ体力があるから、力任せで行っていたんだけど15回を過ぎてきたら、ましてやチャンスで点が入らなかったらマウンドに行くのももう……。アンダーシャツも18回も投げるほど持ってきていないから、替えがなくなってベチャベチャ。おしっこを漏らしたみたいに下までベチャベチャでね。ああ、しんどいなぁって感じで、よいしょって投げるんだけど、球だけはブワーンっていったんですよ」。

 それは初めての経験だった。「無駄な力が入っていない。バランスでパーンと出るというね。でも、プロに入ってからも、ああいうピッチングは1回もなかったね(笑)。どのスポーツもそうで、力を抜いてビューンって行くっていう理屈はわかっているんだけど、できなかったんだよね。だから、あの時は、それがたまたま偶然、そういう試合展開になって自分ができたという体験。もう二度とできなかったですねぇ……」。

 262球を投げて、延長18回0-0引き分けとなり、決着は翌8月19日の再試合に持ち越された。今度は4連投目だ。「朝、はっきり言って起きるのももう大変で……。顔を洗うのも(腕が)上がらなかったんですよ。御飯も(飯碗を持ち上げられず)顔を持っていって食べていたし……。球場に行くまでは“今日、投げられるのかな”ってそればっかり。試合でどうするかとか、そういう頭は全くなかった」。そんな状態だった。

再試合の決勝で敗戦も…気力の122球完投

「それまで全試合ひとりで投げてきて、この決勝の再試合で、じゃあ2年生のピッチャーを、というわけにはいかない。自分が投げなきゃいけないというのはわかっているんだけど、この体でどうしようっていう。で、グラウンドに行きました。ちょっといろいろ動いて少しは……。でも試合前のピッチングはもう全然。やばいな、これ。どうやって粘ろうかって思った。高校3年間の中で一番カーブを使ったのはあの再試合。とにかくごまかさなければいけないと思いましたね」

 初回、松山商の3番打者・樋野和寿内野手に2ランを浴びた。「それも追い込んで高めに投げたのを軽々と持っていかれた。“ウワー、これは球が行っていないな。いつもと同じ配球ではいけないな”と。とにかく低め、低めに丁寧にいかなきゃってね。その裏、ウチも1点を返した。(松山商の)井上の球も来ていなくて、ああ、俺と一緒だなと思ったら向こうは左ピッチャーの中村(哲)に代わった。いかん、ウチは左を苦手にしているから打てんわって。あの時、中村の球がえらく速く見えたもんなぁ」。

 試合は2-4で敗れて準優勝に終わったが、太田氏は9回を投げ切った。まさに気力の122球だった。「せっかく昨日、あれだけの試合をやったのだからボロボロな試合にだけはしたくなかった。もう勝ち負けとかより、最後までマウンドに立ち続けて何とか試合を作るんだって思いで投げた記憶がありますね」と話す。その上で「今の若い子が嫌がる根性ですよ。昔は普段の練習からそういう鍛え方。それがいい、悪いじゃなくてね。やっぱり精神的には昔の人が強いと思いますよ」とも付け加えた。

 敗戦後、太田氏は泣かなかった。「みんなは泣いていたけど、僕は涙が一滴もでなかったですよ。やり尽くした。負けたけども全く悔しさもなかった。悔しさのない負けはあの試合だけかな。それぐらい爽やかな1敗でしたね」。語り継がれる伝説の決勝戦。女性ファン大熱狂の「コーちゃんフィーバー」もすさまじかったが、投げ切ったスタミナもすさまじかった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)