サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは「長く太く」。

■偉大な記録のスタート

 デビューの1966年から2シーズン、「全試合フル出場」を続けた落合の記録は、1968年12月15日に広島での東洋工業戦で途切れる。後半30分過ぎに足首を捻挫、八田嘉明との交代を余儀なくされたのだ。しかしその翌週、12月22日に北九州で行われたシーズン最終戦の八幡製鉄戦では先発フル出場を果たし、2-2の引き分けに貢献している。1981年10月までの「フルタイム出場連続211試合」は、ここから始まるのである。

 1946年2月28日、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。浦和市立高校で国体優勝、全国高校選手権にも3年連続出場、準優勝も経験して、ユース代表にも3年連続して選ばれる。1964年、高校を卒業した落合は、実業団の強豪・東芝に入社する。しかし1965年に日本サッカーリーグ(JSL)がスタートしたものの東芝は参加せず、1966年に三菱自動車販売に籍を移してJSLの「三菱重工サッカー部」の一員となるのである。

 1966年に「山田(旧姓)弘」としてJSLに登録されたときは身長175センチ、体重66キロ。1984年、最終登録年は175センチ、65キロ。19シーズン、まったく体型は変わらなかった。細身の選手だったが、コンディションづくり、試合のための準備は真剣そのものだった。酒豪が多かった時代に酒は飲まず、睡眠時間をしっかり取るために「つきあいが悪い」と言われても意に介さなかった。

■Jリーガーに負けないプロ精神

 JSLはプロリーグではなく、三菱も全員が三菱重工や三菱自動車の社員で構成されるチームで、「アマチュア」だった。しかし落合は、社業をこなしつつ、現代のJリーグの選手に負けない「プロフェッショナル」としての生活を送り続けたのである。それこそ、「16シーズン連続全試合、260試合出場」という大記録の秘密だった。

 最初は「インサイドFW」として得点センスを買われていたが、その後MFとなり、20代後半を迎えるころには守備ラインに入り、ストッパーもリベロもサイドバックもこなした。持ち前のサッカーセンスがどのポジションでも生きたが、監督が必要とする役割を期待以上のプレーでこなした。

 彼の「JSL連続出場記録」が途切れたのは、1982年の開幕戦、4月4日に東京・西が丘サッカー場で行われた日本鋼管戦だった。この日、横山謙三監督(彼もまた落合、杉山とともに1966年の開幕戦でJSLにデビューした選手だった)は落合をベンチに置き、20歳の川添孝一をピッチに送り込んだ。帝京高校出身の生きのいいアタッカーだった。川添は前半23分に先制点を決め、横山監督の期待に応えた。

 2-0のリードで試合終盤を迎えたとき、コーチの大仁邦彌(落合より「学齢」は1年上だが、三菱サッカー部では4年後輩だった)が落合に「準備しろ」と伝えた。残り時間は5分だった。デビューから前年まで16シーズン続いてきた「全試合出場」、「260試合連続出場」の記録に対する横山監督からの配慮だと、落合は思ったという。

■世界に誇る記録

 しかし落合にとって、そうした「出場」の仕方は本意ではなかった。前年までの260試合は、他のすべてを犠牲にしてサッカーのためにできうる限りの努力をし、チームに必要とされ、自分で勝ち取ってきたものだった。「こんな形で出たら、その260試合が台無しになる」―。そう感じた。

 そう感じても、一選手が監督に反抗する形はつくりたくなかった。西が丘サッカー場のロッカールームは、三菱のベンチから走っていけばわずか数十秒、ゴール裏の観客席の下、コーナーのすぐ後ろにある階段を5段ほど下ったところにあった。落合はすぐにベンチを出てロッカールームに戻り、ゆっくりとユニフォームに着替えた。着替えている最中に、ピッチから佐野敏一主審が吹く試合終了の長い笛が聞こえてきた。味方選手を祝福するためにピッチに戻ると、横山監督は何も言わなかった。

 このシーズンの出場は5試合、翌1983年は2試合。1984年には、1973年からつけ続けていた「背番号5」を「23」に変えたが、試合出場はならなかった。落合のJSL出場記録は267試合で終わり、1971年から1988年までプレーした古河電工のFW永井良和の最多記録272試合にわずかに及ばなかった。

 繰り返すが、世界のリーグの最長連続試合出場記録は調べることはできなかった。だがデビューから260試合連続出場(16シーズン全試合出場)という落合の記録は、ひとつの国のトップリーグとして「とてつもない世界記録」なのではないか―。

 落合弘は、「三菱サッカー部」の後身である「浦和レッズ」の社会貢献・競技普及、そして子どもたちの「心」を育てるための「ハートフルクラブ」の「キャプテン」として、80歳を目前にしたいまも元気いっぱいに活動している。髪の毛は真っ白になったけれど、175センチ、65キロの体型は今もまったく変わっていない。

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