サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは「長く太く」。

■世界の「全試合出場男」

 イングランドのプレミアリーグでも、「連続出場」の記録保持者はやはりGKだ。アメリカ人GKのブラッド・フリーデルは、2004年から2012年にかけて、ブラックバーン・ローバーズ、アストン・ビラ、トットナム・ホットスパーの3クラブで310試合連続出場という大記録をつくった。そのうち304試合は、2004/05年から2011/12年にかけて、8シーズンにわたる「全試合出場」だった。

 プレミアリーグのフィールドプレーヤーの最多連続出場記録は、現役時代の多くのシーズンをチェルシーで過ごしたMFフランク・ランパードの164試合。チェルシーでデビューした2001年のシーズン開幕戦から、2005年12月、病気で欠場するまで、彼は間違いなくイングランドで最高の選手だった。

 だが、欧州のビッグリーグには、フィールドプレーヤーとして251試合連続出場という記録を持つ「猛者」がいる。スペイン、バスク地方のビルバオで生まれ、2014年から現在に至るプロとしてキャリアのすべてを、この地方を代表するクラブ、アスレチック・ビルバオで過ごしているストライカーでありながら、現在はガーナ代表としてプレーするイニャキ・ウィリアムズである。

 2015/16シーズンから始まった彼の連続出場記録は、2023年の1月まで続き、251試合に及んだ。この間、2016/17シーズンから2021/22シーズンの8シーズン、「全試合出場」を続けたのである。背番号9、身長186センチのセンターフォワード。試合中には常に相手DFの無慈悲なタックルにさらされ、どこかを傷めずに試合を終わることなど珍しいストライカーというポジションで、このような記録を残すことは希有と言ってよい。

 父はガーナ人、母はリベリア人。母はリベリアの内戦から逃れていたガーナで父と出会い、ふたりは1994年に難民としてスペインに渡り、バスクに落ち着いてそこでイニャキを生んだ。イニャキは6歳でサッカーを始め、2014年に20歳でアスレチックとプロ契約。翌年にはスペインのU-21代表に選ばれ、2016年5月、21歳でスペイン代表にもデビューした。ボスニア・ヘルツェゴビナとの親善試合だったが、以後、スペイン代表からは遠ざかった。

 2018年には「バスク代表」でもプレーしたが、ガーナ・サッカー協会からの熱心な誘いに応じ、2022年、28歳でガーナ代表になるとことを決意、その年のワールドカップ・カタール大会にも出場した。ちなみに、彼の8歳年下の弟ニコ・ウィリアムズもアスレチック・ビルバオでプレーし、2022年、20歳でスペイン代表に選出されると、やはりその年のワールドカップ・カタール大会でプレーした。

■鉄人は日本にいた!

 さて、世界のリーグでフィールドプレーヤーの「最多連続出場」が誰なのか、申し訳ないが調べることはできなかった。しかしその「候補」はひとり挙げることができる。ある日本人選手である。

 Jリーグでの最多連続出場記録は、ベガルタ仙台からサンフレッチェ広島にまたがるGK林卓人の235試合。ただしこのうち82試合は、仙台がJ2にいた時代のものである。フィールドプレーヤーの最多連続出場記録は、横浜F・マリノス日本代表の守備を率いた中澤佑二である。2012年の9月から2018年の8月まで7シーズン、199試合に出場し続けた。うち最後の178試合は「フルタイム出場」だったからすごい。

 しかしこの中澤も、イニャキ・ウィリアムズの251試合には及ばない。彼をしのぐ日本人選手、それは、落合弘である。

 落合は1966年に日本サッカーリーグの三菱重工に加入、その年の開幕戦、4月10日に東京の駒沢競技場で行われた日立戦でFWとして出場し、開始11分にやはり「新人」の杉山隆一のパスを受けて先制点を叩き込むという鮮烈なデビューを飾った。そしてそれから35歳で迎えた1981年までの16シーズン(!)、260試合、落合はJSLで「全試合出場」を続けるという偉業を成し遂げるのである。

 しかもその間の260試合はすべて先発で、途中交代もわずか3試合。1968年の最終節から1980年の第10節まで、なんと211試合にわたって「フルタイム出場」を続けたのである。これを「鉄人」と言わず、誰がその名に値するだろう。

■日本代表でも活躍

 JSLは1972年まで8チーム編成で、1チームがプレーするシーズンの試合数はわずか14だった。1972年に2部が誕生し、1973年には1部が10チーム編成となってシーズン18試合となったが、20クラブ編成でシーズン38試合を消化する現在のJリーグと比較すると年間の試合数は極端に少ない。日本代表強化のための日程が長かったためだ。

 1シーズンの試合数が少なかったから「フルタイム出場」を続けることができたのだろうか。いや、試合数が少なかったからこそ、逆にコンディションを保つのが難しかったのではないか。

 ユース代表(現在のU-20日本代表)のエースで、20歳で迎えた1966年に日本代表に選ばれたこともあったが、「代表Aマッチ」初出場は1974年、28歳と遅かった。だがその後は1980年まで日本代表でも中心的なメンバーであり、キャプテンも務めた。すなわち、落合のJSL時代の後半は、三菱と日本代表との兼務で、休むことなく1年中活躍していたことになる。それでも、1981年まで休むことなくJSLの試合を続けていたのである。

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