ミラノ・コルティナ・オリンピック(五輪)のスキージャンプ「スーパー団体」が悪天候のため、競技途中で打ち切りとなった。 …
ミラノ・コルティナ・オリンピック(五輪)のスキージャンプ「スーパー団体」が悪天候のため、競技途中で打ち切りとなった。
各国4人が飛ぶ「団体ラージヒル」で日本が金メダルに輝いた1998年長野五輪では、開催地の白馬村に大雪が降り、競技が一時中断した。
その裏で、日本の金メダル獲得を後押ししたのが、競技の安全性を確認するため選手に先立って飛ぶ「テストジャンパー」だった。
この時はジャンプ台に雪が積もった影響で、原田雅彦が「失敗ジャンプ」をするなど、日本は1回目で4位。その後、悪天候で中断した。
中断中に、25人のテストジャンパーが連続でジャンプに成功した。1人でも転倒すれば打ち切りとなる可能性があったが、競技は無事に再開され、日本は2回目で逆転し、金メダルをつかんだ。
■代表逃し裏方に 原田の姿に「一緒に戦うんだ」
当時のテストジャンパーの一人が長野県野沢温泉村出身の西方仁也。94年のリレハンメル五輪に出場し、ジャンプ団体で銀メダルを獲得したが、長野五輪では代表入りを逃していた。
その西方が打診されたのが、テストジャンパーだった。自らが出られない大会に複雑な思いを抱えながら、受け入れた。
98年2月17日。長野県白馬村のジャンプ台は大雪に見舞われていた。
競技開始前、控室にいた西方に近づいてきたのが、日本の3人目で飛ぶ予定の原田だった。同じ世界で戦った同い年の友人であり、代表の座を争ったライバル。不意に声をかけられた。
「手袋か何か、貸して。アンダーシャツでもいい」
うっかり用意し忘れたのかと思った。着ていたシャツを脱ぎ、原田に手渡した。各国の選手が1本目を飛び始める。スタートゲートに向かう原田が、自分たちの控室近くにあるエレベーターから出てきた。その紫の襟元に、視線が止まった。
ついさっきまで自分が着ていたシャツだ。一瞬、目が合った。原田は、何か決意を秘めているような表情を浮かべていた。その時の心境を、西方は、はっきりと覚えている。
「『一緒に戦うんだ』っていう原田の気持ちが、何となくそこで分かって、うれしかった」
しかし、1本目を終え、日本はまさかの4位。原田の失敗ジャンプが響いた。ジャンプ直前に突然雪が強まり、助走スピードが上がらない。「雪が助走路に積もったせいで、スキーが滑っていないのが分かった」と西方。
その日の朝日新聞(夕刊)は原田の1本目の助走を「速度は87・1キロ。ほかの選手より2、3キロ遅い」と報じている。
原田はK点に遠く及ばない79・5メートルに終わり、1本目を終えた時点で日本は首位から13・6点差。さらに悪天候で競技打ち切りとなれば、日本は金はおろか、メダルすら逃してしまう事態に陥った。
■「せめてメダルを」K点越えのジャンプで再開
2本目開始までの間、団体メンバーの斎藤浩哉が西方に近づいてきた。同じ雪印乳業のチームメートは、真剣な表情で「飛ばなきゃダメなんですよ」とつぶやいた。
「せめてメダルを取らせてあげたい」と西方の心に火がついた。
テストジャンパーが1人でも転倒すれば競技打ち切りの可能性があった。25人目、最後の西方は「とにかく大きなジャンプを」という一心で飛んだ。
雪で視界が遮られる中、K点を越す123メートルの大ジャンプをやってのけた。日本の逆転優勝に向けて十分な環境を整えた。
競技は再開し、2本目が始まった。日本の1人目、岡部孝信が137メートルを記録すると、テストジャンパーの控室は大いに沸いた。西方は言う。「『大会をつないだ』と心から思える瞬間だった」
3人目の原田は控室の横を通りながら、「よし、行くぞ!」と雄たけびをあげた。「がんばって!」と控室から励ます声。直後、原田の137メートルの大ジャンプが生まれ、4人目の船木和喜が金メダルを決めた。
「94年以来、もやもやしたものを晴らしてくれた。自分もバーに座って飛ぶ感覚で、一緒に戦えた」と西方は振り返る。日本に夏冬通算100個目の金メダルがもたらされた瞬間だった。(高億翔)