東京ヴェルディ・アカデミーの実態~プロで戦える選手が育つわけ(連載 天才と称される数々の逸材を生み出してきた、東京ヴェル…
東京ヴェルディ・アカデミーの実態
~プロで戦える選手が育つわけ(連載
天才と称される数々の逸材を生み出してきた、東京ヴェルディのアカデミー。前身である読売クラブ時代を含め、その環境に憧れるサッカー少年は少なくなかった。
自身もアカデミー出身で、のちにヴェルディでJリーグデビューを果たしたばかりか、トップチームの監督も務めた冨樫剛一(現横浜F・マリノスユース監督)もそのひとり。冨樫が読売を知るきっかけとなったのは、当時のサッカー専門誌だったという。
「都並(敏史)さん、戸塚(哲也)さん、上島(康夫)さん、大友(正人)さんが"読売クラブのヤングカルテット"として表紙になっていたんです」
当時の冨樫は、「サッカー雑誌を端から端まで読むのが好き」という、超のつくサッカー小僧。愛読誌の表紙を見た瞬間、「うわっ、カッコいい!」と、たちまち心を奪われた。
同じ小学校の友人たちは日産自動車(横浜F・マリノスの前身)のファンが多く、「僕ひとりだけが読売(のファン)みたいな状態」だったが、その愛は揺るがなかった。
「僕が通っていた小学校のチームは、横浜市内でそこそこ強かったんですけど、その先、(中学生になったら)どうしようかなって考えるなかで、たまたまサッカー雑誌に読売クラブの特集があって......」
またしても、愛読誌が冨樫の心を動かした。
「そのなかで育成の仕組みも紹介されていて、(トップチームを頂点とした)ピラミッドになっていることを知ったんです。『それなら、ここでやりたい!』って思いました」
ちなみに、前述の表紙を飾った4人のうち、大友を除く3人も、自前の育成組織からトップに昇格してきた選手たちである。
思い立ったら、冨樫少年の行動は早かった。

読売クラブ入りを熱望し、冨樫少年はすぐさま東京都稲城市のよみうりランド内にある事務所に向かった...
photo by Miki Sano
いきなり"アポなし"で東京都稲城市のよみうりランド内にあったクラブ事務所を訪ねると、「小学生のチームに入れてほしい!」と直談判。すでに年が明け、小学6年生も残り数カ月とあって、ジュニアチーム入りはかなわなかったが、12歳の熱意は伝わった。
「事務所の受付にいた大御所みたいな方に、『だったら、スクールに入りな』と言ってもらいました」
読売が運営しているとはいえ、小学生を対象としたサッカースクールは「僕の力でも全員抜いて点を取れるくらい」のレベル。「こんなものか」。それが正直な感想だった。
しかし、冨樫が"真の読売クラブ"を知るのは、それから先。正式に中学生のチーム、すなわちジュニアユース(当時の名称はユースB)に入れてもらうためには、セレクションに合格しなければならなかったからだ。
サッカースクールで気をよくしていた冨樫が、ジュニアユースのセレクション会場に足を運んでみると、狭き門に詰めかけていたのは、およそ150人ものサッカー少年たち。「最初の50m走で、合格ラインが7秒5。僕は8秒5でした(苦笑)」。
これは無理だと半ばあきらめていたが、ゲーム形式のテストになり、思わぬチャンスが巡ってきた。
冨樫は当時、FWの選手だったが、セレクション参加者のほとんどがFW志望。どの少年団でも、うまい子はたいていFWなのだから当然のことではある。冨樫が「FWは倍率が高そうだから、MFで手を挙げようか」と思案していると、サッカースクールで顔を合わせていたコーチの竹本一彦に声をかけられた。
「おまえ、スクールの子だよな。じゃあ、一番後ろをやってくれ」
12歳にして、初めて経験するセンターバック。「守備なんかしたことがないので、とにかくボールを取ったら、そのまま持ち上がり、全員抜いて点を取っていました。そこから僕のディフェンスの人生が始まったんです」。
冨樫の記憶によれば、最終的な合格者は12、13人。本人いわく、「そこに何とか引っかかった」まではよかったが、実際にジュニアユースでの活動が始まってみると、「毎日練習に行くのが怖かったです」。
読売クラブという特殊な環境が、そこにはあった。
(文中敬称略/つづく)