◆ミラノ・コルティナ五輪 ▽フィギュアスケート 男子フリー(13日、イタリア・ミラノ) 【ミラノ(イタリア)13日=大谷…
◆ミラノ・コルティナ五輪 ▽フィギュアスケート 男子フリー(13日、イタリア・ミラノ)
【ミラノ(イタリア)13日=大谷 翔太】 初出場の佐藤駿(エームサービス・明大)が、ショートプログラム(SP)9位から逆転の表彰台。フリー186・20点で、合計274・90点とし銅メダルを獲得した。「信じられない気持ち。夢かな」。3位を確信した瞬間に号泣。メダルを受け取るときは、白い歯をこぼした。
小学1年の時に、東日本大震災で被災。仙台市の自宅は半壊し、3か月ほど滑ることはできなかった。東京の祖母宅に身を寄せ、当時のコーチの紹介で浅野敬子コーチと出会った。根が真面目な、少年だったという。
浅野氏「とにかく、いっぱい練習する子でした。朝から晩まで。ちょっとお休みしよう、休憩しない?と言っても、ステップやジャンプ、スピンと本当にたくさん練習していました」
一時的に預かった時から、才能の片鱗は見えていた。生まれ持った、ジャンプの才能があった。
浅野「浪岡(秀)先生から、春休みだけ預かって欲しい子がいると言われたのがきっかけです。1年生で、サルコーを跳べます、と言われて『はい』と言って来てみら、1回転ではなくて2回転のサルコーでした。ビックリして『上手だね』と言ったことを、覚えています」
ただ、競技会の技術点としては最も低いトウループは取得に苦しんだという。そこにも、佐藤のストイックな性格がにじんでいた。
浅野「春休みが終わり、一度仙台に戻りましたが滑られる所がないということで、その後数か月、引き続きお預かりしました。ただ、2回転トウループができなくて。小学2年生くらいになり、(最も難しい)2回転ルッツなどは跳べるのに、2回転トウループが出来なくて。来る日も来る日も、1回転半で止める練習を、私の前で何十回、何百回とやりました」
今では4回転を操るトウループ。地道な積み重ねが、今に至っていた。
浅野「2回転トウループを跳べるようになった時期は詳しくは覚えていませんが、何としてでも跳んで仙台に帰してあげたい、と思っていました。跳んで帰ったと記憶していますが、確か、次に会った時は平気で3回転トウループを跳んでいましたね(笑)」
浅野コーチが教える中で、佐藤はある約束をしていたという。
「川越で預かっていたころだと思います。本当に小さい時です。オリンピックや金メダルという話よりも、小さい大会でも金メダルを取りたい気持ちがある子です。そんな話をしていた時かも知れませんが『浅野先生をオリンピックにつれていく』と、言ってくれました」
その後、母とともに埼玉に転居し、日下コーチとともに歩んできた。約束を果たし、佐藤はミラノの銀盤に立った。
「幼い頃からの夢だったので、本当に誇らしく思います。夢がかなってよかったと思うと同時に、いつも日下と駿が二人三脚でやっている姿を、私はサポートしかできませんが、本当に誇らしく思います」
五輪初出場ながら団体のフリーでは会心の演技を披露し、日本の銀メダル獲得に貢献。個人でも再び、表彰台に立った。支えてくれた人たちに、結果で恩返しを果たした。