元近鉄・太田氏が語る「高校野球人生の最高の思い出」 青森・三沢高時代に「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした元近鉄右腕の…

元近鉄・太田氏が語る「高校野球人生の最高の思い出」

 青森・三沢高時代に「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした元近鉄右腕の太田幸司氏(野球評論家)と言えば、1969年夏の甲子園決勝・松山商戦での延長18回0-0引き分け再試合の熱投が有名だ。翌日の試合に敗れて惜しくも準優勝に終わったが、当時は日本中から注目された。ただ、太田氏にとって「高校野球人生の最高の思い出」はその試合ではなかった。それより1年前、初めて甲子園切符をつかんだ1968年夏の青森大会決勝・八戸工戦だという。

 学校名が大三沢から三沢に改称された1968年、2年生になった太田氏は明らかに進化していた。背番号11のエースは春の青森大会、準々決勝・大湊戦、準決勝・弘前実戦をいずれも2-0で零封勝利。打者の手元でホップするストレート一本槍の投球で打者を牛耳った。決勝は八戸工と延長12回の激闘の末、1-3で敗れたものの、実力を存分に見せつけて、県内屈指の右腕と評されるようになった。

「春の決勝は雨の中ですわ。最後(延長12回表)はファーストの菊池がポロッと落として点を取られて、みんなが『メガネにワイパー付けろよ』とか言ったり、そんなノリでしたね。負けましたけど、僕ら2年生中心のチームで決勝まで行って、それでもう満足するぐらいだったんです。でも、その後の(田辺)監督のひと言で人生が変わるんですよ。『お前ら、甲子園にまた一歩近づいたな』と言われてね」

 最初、その言葉を聞いた時は「“監督は何を言っているんだ”と思った」という。「そしたら『今年の夏は50回の記念大会だ。(今回は)決勝で負けたやろ。あとひとつ勝ったら甲子園に行けるぞ』って。その時は青森と岩手での北奥羽大会で甲子園を争っていたんだけど、記念大会は1県1校。今までいくら頑張っても夢のまた夢だった甲子園が、本当に現実として手が届く。『あとひと踏ん張りだ』ってね」。

 太田氏をはじめ、三沢ナインの目の色がそこから変わったそうだ。「もしかしたら、その春から夏にかけてが、高校生活の中で一番夢を持って、希望を持って練習した時期かもしれない。それまで口では甲子園を目指すとか言っていたけど、実際に行けるとは思っていなかったし、あれはテレビで見るところだ、くらいに考えていた。それがひょっとしたらって。そう考えられただけで違ったんですよ」。

 チームとして自信を付け始めた時に50回記念大会が開催されるというタイミングもよかった。「そうなんですよね。それもまた巡り合わせというかねぇ」と太田氏は感慨深げに話す。実際、三沢の躍進は続いた。夏の青森大会、初戦となった2回戦の相手は、前年(1967年)秋の青森大会準決勝で敗れた鯵ヶ沢だったが、3-1でリベンジ勝利。勢いも加速して、3回戦・黒石を6-1、準々決勝は弘前実を6-0で撃破した。

決勝戦でリード奪われ「ホントに終わったな」

 準決勝の五所川原農林は1-0。三沢は初回に1点を先制。それを太田氏が守り切った。被安打2、奪三振14での完封劇だった。そして迎えた決勝戦。相手は春の青森大会決勝と同じ八戸工だった。「両方がシードで、大会前から決勝は春の再現もあるんじゃないかって言われていて、その通りになったんですけどね」。試合は苦しい展開となった。0-0の7回裏、八戸工にエラー絡みで2点を先行された。

「あの時のことは今でも思い出しますよ。2点取られてウワーってなって。“ああ、甲子園が終わった”と思って、うなだれてねぇ。ベンチに戻る時も遠く感じて……。もうホントに終わったなって感じだったんです」。それが終わらなかった。三沢は直後の8回表に2点を奪い返した。「今度は向こうのエラー。一、二塁でライト前ヒット、前に守っていたライトがライトゴロを狙ってファーストへ大暴投し、ボールがバックネットまで転がる間に2人が還ってきたんです」。

 これには太田氏も小躍りした。「(8回裏の)マウンドに行く時はスキップ踏んで『よっしゃあ!』とか言って、気合がブワーと入った」という。「それで延長10回表に1点とった。これは今でも覚えていますわ。(10回裏)最後の打球はショートゴロ。ポン、ポン、ポンと高いバウンドで、ちょっとイレギュラーしたのを(ショートの)八重沢が捕って投げて……。みんなで『甲子園だあ!』って」。

 まさに感動の瞬間だった。「野球はその後も長いことさせてもらいました。悔しいこと、嬉しいこと、たくさんありましたけど、野球をやっていて泣いたのは、その時が最初で最後。ベンチの上では両親も含めて、みんなボロボロ泣いていてねぇ……。今、あの時の話をしていても、なんかウルウルしてきますもんね」と太田氏は話し、さらにこう続けた。

「僕に関しては、どうしても(1969年夏、延長18回0-0引き分け再試合の)あの甲子園決勝が話題になるけど、高校での野球人生の中では(1968年、2年生時の青森大会夏の決勝戦の)あの時がもう最高。それほど、甲子園って行けるところじゃないって思っていたんでねぇ」

 1968年夏に初出場を果たした三沢は、そこから3期連続で甲子園に出場する。「2年生7人のあのチームで、夏の暑い甲子園も経験できたし、いろんなこともね。それが、最後の(1969年)夏につながっているというか……。もし2年の夏に出られなくて、3年の最後の夏がいきなり甲子園初出場だったら、(松山商との決勝での)あんなことも起きていなかったと思います」。そう言って太田氏はうなずいた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)