元近鉄・太田氏が振り返る、転機となった高校進学 元近鉄、巨人、阪神で活躍した右腕の太田幸司氏(野球評論家)は1967年に…
元近鉄・太田氏が振り返る、転機となった高校進学
元近鉄、巨人、阪神で活躍した右腕の太田幸司氏(野球評論家)は1967年に青森県立大三沢高(1968年4月から三沢高に改称)に進学し、1年秋には2年生エースを押しのけて、背番号11ながら実質、主戦投手になった。練習試合で完封、完封。さらに新人戦初戦ではノーヒットノーランの快投を見せて、そのポジションをつかんだ。「そこから公式戦は全試合、僕ひとりで投げました」。“元祖甲子園アイドル投手”の高校野球が始まった。
太田氏は「高校進学も転機でした」と話す。当初は大三沢ではなく、青森県立八戸高への進学を考えていたからだ。「八戸は青森の中でも超進学校で甲子園にも何度か出ていました。僕は勉強もそこそこできていたので、進路指導の先生にも『野球も勉強も両方合致しているじゃないか。八戸高校に行け』と言われて一生懸命、受験勉強もしていたんです」。それが大三沢に変わったのは「ひとつは、小、中学校で一緒に野球をやった仲間が行くことになったから」と話す。
「野球好きの先生から『小学校でも中学校でも、三沢市内ではダントツに強かったから、このメンバーで(地元の大三沢に)行けば強くなる。行けよ』とか、言われてね。最終的には、親父もお袋もあまり体が強くなかったし、家から近い学校の方が親にも負担がかからないかと思って(大三沢を)選んだんです。小さい時から一緒にやっていた仲間と3年間楽しく野球をやろう、みたいな感じで、その時は甲子園を目指して頑張るぞ、なんて気持ちは毛頭なかったんですけどね」
入学後は「毎日バッティングピッチャーと走ってばかりでした」という。そんな1年夏の大三沢は八戸・十和田大会初戦で八戸水産に敗れた。「あの頃は十和田地区の予選があって、そこから県大会に行くんですけど、その予選で負けました。残念だったけど、さぁ、これで俺らの時代だ! とも思いましたよ。だって2年生が4人しかいなかったので」。1年秋からは試合出場の可能性が膨らみ、奮い立ったわけだ。
もっとも太田氏は「ピッチャーは2年生のエースがいて、なかなか球が速いし、その先輩が1番をつけて投げるんだろうから、自分は外野かなんかで出られたら、と思っていた」と話す。その状況が変化したのは新チームで最初の練習試合だ。「エースの先輩はそれまでも上の学年相手に投げていたので監督も力は分かっている。僕はバッティングピッチャーくらいしかしていなかったので『お前、ちょっと投げてみるか?』って言われて、投げたら完封したんです」。
初戦で登板→ノーヒットノーランの快挙
背番号は11。大ファンの阪神・村山実投手と同じ番号で「とても気に入っていた」と言うが、結果も出し続けた。「次にチャンスをいただいて投げたら、また完封。そうこうしているうちに新人戦が始まって、初戦は先輩が行くと思ったら監督が『太田、お前が行け!』って。そしたらノーヒットノーラン。その次の試合も完封して……。結局、そこからの公式戦は全試合、僕がひとりで投げましたから、あの最初の練習試合に投げさせてもらったのも転機になりましたね」。
背番号1の先輩投手を押しのけての“昇格”。「練習試合はよしとしても、公式戦も最初に投げさせてくれて……。普通だったら実績のある先輩を投げさせるでしょ。もし、僕が打たれていたら監督が批判されたんじゃないかなぁ。エースがいるのに、なんで下の学年のヤツを投げさせたんだ、ってなりかねないですもんね。まぁ僕は打たれて当たり前と思って投げていましたけどね。先輩には申し訳なかったけど、僕にとっては大きなことでした」。
1年秋は青森大会準決勝まで進むも、鰺ヶ沢に延長11回2-3でサヨナラ負けを喫した。「それなりの試合はしていたし、1年生中心のチームでも十分戦えるなと。でも、その次の年(1968年)の夏に甲子園に行けるとは、その時は全く思っていませんでした。僕らが3年になる頃には、もうちょっと強くなるんじゃないか、みたいな、そんな感じだったんですけどね」。
エースとなった太田氏の進化は続いた。持ち前のストレートに磨きがかかった。「あの頃は、ほとんど真っ直ぐ1本でした。一応カーブもあったんですけど、うまく曲がらなくて。スピードの抜けた真っ直ぐみたいになって、その方がバットに当たるんでね、だから本当に真っ直ぐだけ。カーブのサインなんかなかったですもん。今思うと、150キロとかの速さはなかったけど、ホップするような伸びる球っていうかな、そういうタイプ。バッターが下を振っちゃうみたいな、ね」。気がつけば青森県下で有名な投手になっていた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)