ミラノ・コルティナ五輪(オリンピック)フィギュアスケート団体で2大会連続銀メダルを獲得した日本が思わぬ余波を受けた。一夜…

ミラノ・コルティナ五輪(オリンピック)フィギュアスケート団体で2大会連続銀メダルを獲得した日本が思わぬ余波を受けた。

一夜明けた9日、日本スケート連盟は大会組織委員会へ抗議を発表。表彰式の際、表彰台の上面がラバー等でスケート靴のブレード(刃)を保護する形になっておらず刃こぼれが起きた。午前に専門の工房でのリペアを段取り。研磨のスペシャリストでもある佐藤駿(エームサービス/明大)の日下匡力(ただお)コーチ(46)が全選手の分を担当したという。日下コーチの歩みを記者が解説する。

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冷静沈着な佐藤の隣で、派手な喜びを表現する日下コーチ。これまでの競技会では得点が発表される「キス・アンド・クライ」での、そんな姿が国内外で話題となってきた。

一方、業界では研磨のスペシャリストとして、広く知られている一面もある。

神奈川・藤沢市で生まれ、3歳のころに埼玉・三郷市へと引っ越した。小学3年生のころから「新松戸DLLアカデミー」で本格的な指導を受け始めた。

日大で全日本選手権に2度出場。大学院受験のために5年目の前期まで通ったが、結果は不合格。自身の担当だった浅野敬子コーチの誘いを受け、埼玉・川越市でコーチングを始めた。

並行したのはリンクのアルバイト。毎日午前5時に鍵を開け、恩師について早朝練習を指導した。氷の厚みを整える作業など、スケート場の全てを頭にたたきこんだ。

その一環で始めたのがブレードの研磨だった。かねて、こう振り返っている。

「当時、リンクで男性コーチは僕1人。機械系の作業は男性がやるイメージもありましたし『俺がやるしかないな』と思って、徹底的に勉強をしました」

教え子だけでなく、他のコーチに習う選手、一般客の靴の悩みに向き合った。

ある日、午後9時に指導を終えると、研磨の依頼を受けた靴が70足あった。翌朝までに全てを仕上げた。

「川越のリンクって、隣を電車が走っていました。電車が来ると、揺れるんですよね。僕はそれが気になる。でも日付が変わるころには、終電が終わるじゃないですか。そこから始発までの5時間が勝負。寝ないでやりました。きつかったです。でも、好きだからやれました」

指導者生活の序盤で身に付けた特技は、のちに自らの助けになった。東日本大震災後に一時的に仙台から埼玉へとやってきた佐藤を、中学3年生から本格的に指導するようになった。自身は現役時代に4回転を跳んだことはなく、ともに考えながら歩む日々。世界選手権も、五輪も、佐藤の飛躍によって経験することができた。

遠征時はオレンジの小さなスーツケースに、予備のスケート靴、ブレード、工具一式を入れて持ち歩く。そんな日下コーチの腕が、ミラノでの危機の助けになった。

25年12月に佐藤が五輪初代表を決めてから、日本スケート連盟の竹内洋輔強化部長に用具面でのサポート依頼を受けた。02年ソルトレークシティー五輪代表の竹内強化部長は同い年。小学生のころから遊んできた親友で、競技面では日下コーチが「いつか、ああいうふうになりたい」と背中を追った存在だった。

今大会は佐藤が出場する男子はもちろん、最終種目の女子が終了するまでミラノに残る。日下コーチが常々語っていたことがある。

「駿と海外に行くことも多いけれど、日本に残っている浅野先生が一番大変なんですよ。何度も言いますが、本当にいつも感謝しています」

支えられて、支える。多くの人が助け合い、選手はリンクに立つ。【ミラノ=松本航】

◆ブレード スケート靴に装着する金属の刃で、氷との接地面にあたる部分はエッジと呼ばれる。フィギュアの場合はつま先にギザギザとした部分(トーピック)があり、トーループ、フリップ、ルッツを跳ぶ際に用いられる。ブレードを研ぎ、小さな溝を整えるのが研磨。

◆日下匡力(くさか・ただお)1980年(昭55)1月27日、神奈川・藤沢市生まれ。3歳の頃に埼玉・三郷市に引っ越す。小学1年生でスケートを始め、3年生のころに「新松戸DLLアカデミー」で本格的な指導を受ける。東京・錦城学園高を経て日大。日大時代に全日本選手権へ2度出場。卒業後、恩師の浅野敬子コーチの下で指導者として活動開始。18年から父の転勤で埼玉へ引っ越してきた佐藤駿を指導。教え子の佐藤は19年ジュニアグランプリ(GP)ファイナル優勝。24、25年GPファイナル銅メダル。24年4大陸選手権銀メダル、23年銅メダル。ミラノ・コルティナ五輪団体銀メダル。

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大阪体育大でラグビー部。13年に日刊スポーツ大阪本社へ入社。2年間はプロ野球の阪神タイガース担当、以降は五輪競技やラグビーを主に取材。21年11月に東京本社へ異動。五輪取材は18年平昌、21年東京、22年北京、24年パリに続き、ミラノ・コルティナ大会で5大会目。ラグビーW杯は19年日本、23年フランス大会で日本代表の全9試合を現地取材。185センチ、100キロ。