元近鉄・太田幸司氏が振り返る原点「野球しかなかった」 甲子園を沸かした“元祖アイドル右腕”が太田幸司氏(野球評論家)だ。…

元近鉄・太田幸司氏が振り返る原点「野球しかなかった」

 甲子園を沸かした“元祖アイドル右腕”が太田幸司氏(野球評論家)だ。うなる快速球に甘いマスク。青森・三沢高エースとして、1969年夏決勝の延長18回0-0引き分け再試合での激投などで「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした。ドラフト1位で入団した近鉄でも2桁勝利を3度マーク。常に人気を背負いながら、アマでもプロでも実績を残したが、その原点ともいえる小学生時代は決してズバ抜けた存在ではなかったという。

 1952年1月23日生まれの太田氏は「僕らの時代は子どもが何かやるといったら野球しかなかった。小学校に入る前から、稲刈りしたあとの田んぼで三角ベースとかで遊んでいましたよ。それに親父が結構野球好きでね。道具も、裏の雑木林で、木を切って削ってバットみたいなものを作ってくれたし、お袋は布に綿を入れてグラブみたいなのを作ってくれたんです。親父とはよくキャッチボールをしましたしね」と振り返る。

「あの頃って町内会にも、テレビがある家がまだ1軒、2軒という状況だった。ナイターは巨人戦しかやっていないしね。テレビがある家にお父さん方もビールとおつまみを持って集まって野球中継を見る。そこへ連れていってもらって一緒に見ました。その辺が野球との出会いでもあったのかな」。自然と巨人ファンになったそうだ。「3番・長嶋(茂雄)やぁーとか言ってね。パ・リーグは日本シリーズで巨人と戦う西鉄、南海くらいしか知らなかった。近鉄は全く知らなかった」。

 三沢市立岡三沢小学校4年の時に、学校の軟式野球部に入った。ポジションは外野手。「三沢は特殊でね、米軍基地の中に米国のチームが何チームかあって、そこに市内の小学校の選抜チームも入って土日は試合をしていた。こっちは硬式。だから軟式と硬式の両方をやっていました。僕らは小学校の軟式チームでがっつり練習していたけど、米国のチームは楽しそうにやるだけだから、僕らの方が圧倒的に強かったんですけどね」。

 しかしながら、太田氏は決して目立つ存在ではなかったそうだ。「小学校のチームでは1番とか2番を打っていましたけど、選抜チームではたまにスタメンで使ってもらえるか、くらいの選手でしたね。選抜チームは(米軍内のリーグで)優勝して、東京のリトルリーグの大会に行ったけど、人数制限とかもあって、そのメンバーには選ばれなかった。(三沢駅で)みんなを見送るだけの寂しい思いもしましたよ」と話した。

足が速くて強肩も「野球は下手」

「同級生がみんなうまくてね。ウワー、凄いなぁって見ていましたね。そこに何とか追いつこう、みたいな、そんな感じでした。プロ野球選手になる人は、よく小さい頃から野球が抜群に上手くて……とか言われますが僕の場合は全然」。のちに女性ファンを大熱狂させる太田氏だが「ピッチャーで、4番でキャプテンというのがあの頃のモテるパターンというか。それに憧れはあったけど、自分がピッチャーをやれるようになるとは思ってもいませんでした」と口にした。

「足は一番速かったし、肩が強かったというのはありました。でも野球は下手。たいして打てなかったですし……。外野からはガーッと放って、バックネットによく直接ぶつけていました。見せ場だと思って、みんながカットっていうなか、ノーバンで行ったろうと思って投げたら、大暴投。そんなのもよくやっていました。まぁ、身体能力はありましたね。小学校とかの運動会では足が速いんで独壇場でした」。それでも野球では、同級生たちにその頃はまだ勝てなかったようだ。

 当時の三沢市内の小学校選抜チームには、後の三沢高野球部メンバーが数多く名を連ねていた。「あの時は(三沢高では一塁手となる)菊池(弘義)がエースで、(三沢高で)ショートだった八重沢(憲一)も投げていましたね」。太田氏が投手になるのは三沢市立第一中学2年になってから。そこから伝説の投手への道を歩んでいくが「小学校当時のことを知る人だったら『あの太田が……』って思っていたんじゃないですかねぇ」と言って笑った。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)