<ミラノ・コルティナオリンピック(五輪):フィギュアスケート>◇団体男子フリー◇8日(日本時間9日)◇ミラノ・アイススケ…
<ミラノ・コルティナオリンピック(五輪):フィギュアスケート>◇団体男子フリー◇8日(日本時間9日)◇ミラノ・アイススケートアリーナ
【ミラノ=松本航】日本が2大会連続の銀メダルをつかんだ。前回王者の米国と順位点59点の同点で最終種目の男子フリーを迎え、初出場で最終滑走の佐藤駿(22=エームサービス/明大)が自己ベスト194・86点を記録。悲願の金メダルも視界に入る好演技だったが、世界選手権2連覇中のイリア・マリニン(21=米国)に5・17点届かなかった。夢の頂を逃して涙に暮れた。22年北京大会は繰り上げでの銀メダル。06年トリノ大会から続く日本勢6大会連続メダルは新時代到来を印象づけた。
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金メダルを信じた得点発表で、冷静沈着な佐藤の涙があふれた。歓喜の米国を横目に、同い年の鍵山が泣きながら肩を寄せてくれた。その場で肩を組み、選手全員で視線を下げた。「本当によく頑張った」。その言葉が涙の勢いを強めた。しばらくは1人で立ち上がれず、顔を両手で覆った。
「いいバトンがつながってきた。バトンを最後まで落とすことなく、ちゃんと届けられたのが良かった」
緊張から解き放たれた安堵(あんど)を、悔しさが上回った。だからこそ「1位を取りたかった」と泣いた。米国との一騎打ち。相手は25年世界選手権優勝者を4種目中3種目で擁した。下馬評を覆し、あと1歩まで追い詰めたからこそ、悔しくてたまらなかった。
本気で金メダルを狙った。順位点5点を追った最終日。ペアフリーを三浦、木原組、女子フリーを坂本が制し、同点に持ち込んだ。マリニンのフリー自己記録は238・24点。大会前の自身の194・02点では、遠く及ばない。演技直前の6分間練習。限られた時間でありながら、構成に組み込んでいない4回転フリップを着氷させた。「優勝するには、4回転を増やすしかないかな」。金メダルから逆算し、今季前の右足首負傷後は、曲をかけた練習でも試したことがない大技投入を模索した。「駿の決めることだったら反対しない。思うようにやってこい」。日下匡力コーチの言葉に感謝し、考え抜いた末に従来通りの構成を選んだ。
応援席では坂本が立ち上がりながら腕を組んでいた。今にも泣きそうだった。演技中も目線が合う度に、仲間が背中を押してくれた。初の五輪。冒頭のルッツを4・11点の加点で成功させると、4回転2種3本を降りきった。4分間の「火の鳥」を演じきると、最後は右拳を振り下ろし「ここまでみんなノーミスの演技をしているんだから、自分もできる。強い気持ちで臨みました」と胸を張った。
4年前の2月10日、北京五輪男子フリーの当日は手術台にいた。左肩の脱臼を繰り返し、メスを入れた。全身麻酔で眠りにつき、目覚めると同い年の鍵山が銀メダルをつかんでいた。同じ仙台出身の羽生結弦さん、銅メダルの宇野昌磨さんの活躍に「日本勢、すごいな」と誇らしかった。その少し前、団体でも鍵山らが銅メダル。のちにロシア・オリンピック委員会(ROC)のドーピングで、銀メダルに繰り上がった。メダルが目標だった日本は4年後、金メダルへ視座を高めた。だからこそ、初五輪の自己ベストも悔しかった。
「このメンバーだからこそ取れた、銀メダルだと思います。いいバトンをくれた、最高のチームの皆さんに感謝しかないです」
誰ひとりとして、最後まで諦めなかった。3日間、8つの演技を、全員が転倒さえすることなく完遂した。佐藤、鍵山は10日(日本時間11日)から個人戦に向かい、ペアや女子の仲間も次の戦いを控える。己と仲間を信じ、結束する大切さを心に刻んだミラノの夜。「あと1点」の悔し涙は、未来への足掛かりになる。
◆佐藤駿(さとう・しゅん)2004年(平16)2月6日、仙台市生まれ。5歳の時に荒川静香、羽生結弦と同じアイスリンク仙台で競技を始める。19年ジュニアGPファイナルでは、自身が羽生に次いで日本人2人目の成功者となった4回転ルッツを武器に初優勝。シニア転向後はGPファイナルで24年から2年連続銅。4大陸選手権は23年銅、24年銀メダル。埼玉栄高を経て明大。162センチ。
◆フィギュアスケート団体 出場10チーム。各種目1人(1組)出場の男女シングル、ペアのショートプログラム(SP)、アイスダンスのリズムダンス(RD)で予選を行い、上位5チームが決勝進出。決勝はフリー(アイスダンスはフリーダンス=FD)となり、各種目予選(1位10点、2位9点…10位1点)、決勝(1位10点…5位6点)の順位点合計を争う。4種目のうち2種目まで異なる選手(組)を起用できる。
◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大阪体育大でラグビー部。13年に日刊スポーツ大阪本社へ入社。2年間はプロ野球の阪神タイガース担当、以降は五輪競技やラグビーを主に取材。21年11月に東京本社へ異動。五輪取材は18年平昌、21年東京、22年北京、24年パリに続き、ミラノ・コルティナ大会で5大会目。ラグビーW杯は19年日本、23年フランス大会で日本代表の全9試合を現地取材。185センチ、100キロ。