紀藤氏が振り返る楽天移籍「なかなか勝てなかった」 2005年シーズン限りで紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)…

紀藤氏が振り返る楽天移籍「なかなか勝てなかった」

 2005年シーズン限りで紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)は現役を引退した。プロ22年目、創設1年目の楽天でのプレーが最後になった。現役ラストイヤーは0勝5敗。「当時は楽天もメンバー的になかなか勝てなかったですからねぇ……」。開幕前の3月にインフルエンザにかかって出遅れたのも響いたという。「その後も帯状疱疹とか出て、これは無理だなって感じでした」と振り返った。

 紀藤氏は2000年オフに広島から中日に移籍。すでに30代後半だったが、生まれ故郷の名古屋でも全力を尽くした。中日3年目の2003年には先発で7勝をマーク。しかし、落合博満監督体制となった2004年に出番は激減した。「新監督になって、いろんな構想もあるじゃないですか。そういう関係もあったと思います。もう39歳の年でしたし、生え抜きでもない年寄りでしたから」。

 川崎憲次郎投手が開幕投手を務めた4月2日の広島戦(ナゴヤドーム)に4番手で投げて1イニングを無失点に抑えたが、2登板目の4月6日の巨人戦(ナゴヤドーム)では5番手で1回2失点に終わると2軍調整となった。「まぁ、そうなりますよね。若手にチャンスを与えるみたいなね」。5月14日に1軍復帰したが、1試合にリリーフで投げただけで5月30日に登録抹消。6月15日に再登録され、リリーフで8登板したが、7月19日にまた2軍行きとなった。

 8月13日に登録されて、その日のヤクルト戦(神宮)にシーズン初先発し、4回1/3、5失点で敗戦投手。翌14日には抹消されて、以降は1軍に呼ばれず12登板、0勝1敗で終わった。この年の落合中日はリーグ優勝を成し遂げたが、紀藤氏はオフに無償トレードで新球団・楽天への移籍が決まった。「まぁ、長年プロ野球にいたら、だいたい分かりますよ。使われ方とか、待遇とかを見ればね」。

 楽天の監督は田尾安志氏。紀藤氏は小学生時代、中日の選手だった田尾氏の指導を受け「将来、絶対プロになれるから頑張れ」と言われた。そこで自信も得て野球人生に弾みがついた。その“縁”が、プロ22年目で、またつながった。だが、結果は全て先発の8試合で0勝5敗。苦しいチーム事情のなか、勝ち星を手にすることができなかった。振り返れば、3月のオープン戦中にインフルエンザにかかって出遅れたのが響いたという。

「西武ドームでのオープン戦、今でも覚えています。(楽天捕手の)カツノリ(野村克則)がジャンパーを着て、寒い、寒いって言いながら話しかけてきて『それインフルエンザじゃないか』って言っていたらインフルエンザだった。で、自分もかかったんです。大変な目にあいました。40度以上の高熱が1週間くらい続いた。薬をのんでも効かないんですよ。やっと楽になったなぁと思って体温を測っても38度くらい。重症だった。よう死ななかったと思います」

 もはや野球どころではなかった。「高熱が続いた1週間はご飯を食べれず、水しか飲めなかった。体調が戻らずに、体重もガタ落ちしました」。当然、開幕は2軍スタート。できるだけ早めの復帰を目指したが、それもうまくいかなかった。「その後、帯状疱疹とかも出るようになっちゃったんですよねぇ……。なんか体質も変わったような感じで、これはしんどいなぁって思いましたね」。楽天での1軍初登板は5月30日、セパ交流戦の阪神戦(フルスタ宮城)までずれ込んだ。

 敗戦投手になったものの6回2失点。だが、納得できる内容ではなかったという。「(球速は)146(キロ)とか出ていたんですが、もう続かないんですよ。回復しないんです」。その後も先発で起用されたが、打線の援護にも恵まれず、調子も常に万全ではなく、苦しい投球が続いた。5登板目の6月26日の西武戦(長野)では2回1/3、4失点でKOされ、6月27日に登録を抹消された。

 7月10日のロッテ戦(フルスタ宮城)に登録即先発し5回3失点。7月11日にまた抹消された。8月4日に1軍に戻り、その日のロッテ戦(千葉)に先発し4回2/3、4失点で4敗目、中6日で8月11日のオリックス戦(スカイマーク)に先発したが、2回1/3、6失点で5敗目を喫し、翌12日に抹消。そのままシーズンを終え、オフに戦力外となった。「自分から辞めるとは言っていませんが、もう分かっていました。もう終わりだなぁってね」。

22年間の現役生活に区切り、右腕の礎となった「カープのしんどい練習」

 投げたくても体がついていかなくなった。こればかりはどうしようもなかった。通算成績は78勝73敗16セーブ、1456回1/3を投げて、防御率4.07。「楽天で防御率が増えちゃったですね。まぁ、選手って勝ち星とかでよく評価されるかもしれないですけど、自分は若い頃、ずっと中継ぎ専門でやっていたんでね。でも勝ち星うんぬんじゃなく、よくここまで続けられたなと思います」と、紀藤氏はしみじみと語った。

「丈夫な体に産んでもらった親に感謝ですし、高校(中京高)もそうですし、カープでしんどい練習をしてきたおかげだと思います。なので、普通ならもう選手は無理かなという怪我をしても乗り越えてこれたのかなぁと思う。そりゃあ、もうちょっとこうすればよかったな、とかはありますよ。みんなそうでしょう。どんな成績を残した人でも満足して引退する人はいないと思う。やっぱり不満足で引退すると思いますけどね」

 さらに笑いながら、こう話した。「今みたいに中継ぎの評価が給料に現れていたら、たぶん、もうちょっと自分のなかでは誇れたもんだと思うんですけどね。まぁ、そういう時代じゃなかったんでね。今の中継ぎで(1989年の61登板など)あれくらい投げていたら、すごい給料をもらっているでしょう」。

 1983年ドラフト3位で中京高から広島に入団し、中日、楽天と3球団を渡り歩いた22年間。「広島で(現役を)終わっているのが正解だったのか、中日に行って、楽天に行ったのが正解だったのか。何か正解だったかは分かりませんけどね」と言いながらも、その間の多くの出会いに支えられての現役生活だった。怪我とも闘い、ボロボロになりかけながら、その都度、不屈の精神でよみがえり、リリーフでも先発でも結果を出した右腕として名を残したと言っていい。

 紀藤氏は現役を終えた楽天に指導者として残った。「(2005年に)戦力外を言われてから何日かした後に球団から電話があったんです。“2軍のコーチをやらないか”って。さあ荷物を片付けようとしていた時だったんですけど、引っ越すのも面倒だったし『お願いします』と言いました」。2006年シーズンから楽天は野村克也監督体制。それがまた、大きな出会いとなった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)