九州文化学園高・香田勲男監督、巨人時代の右肩手術を回顧 プロ初勝利の喜びも、つかの間の出来事だった。巨人、近鉄で投手とし…

九州文化学園高・香田勲男監督、巨人時代の右肩手術を回顧

 プロ初勝利の喜びも、つかの間の出来事だった。巨人、近鉄で投手として活躍した香田勲男氏は、九州文化学園高の野球部監督に就任して5年目を迎えている。昨夏の長崎大会は決勝戦に進出。春夏通じて同校初の甲子園出場まであと一歩に迫った。昨秋の長崎大会もベスト4に進出するなど指導者として手腕を発揮する香田氏だが、プロでは苦しい下積みの時代があった。

 巨人に入団して3年目の1986年。5月1日の中日戦(ナゴヤ)で待望の瞬間が訪れる。4回途中から救援登板して4回2/3を無失点。うれしいプロ初勝利を手にした。「西武からトレードで来たアンダースローの高橋直樹さんが先発でしたね。私が4回2/3をパーフェクトに抑えて、最後は外国人のサンチェが抑えて勝ちました。よく覚えています」。

 2年目に1軍デビューはしていたものの1軍登板は1試合だけ。3年目は1軍で13試合に登板して1勝0敗。飛躍の足がかりをつかんだように見えたが、右肩の状態が思わしくなかったという。「痛くて投げたり休んだりというのが多かったんです」。その年のオフに右肩を手術。4年目はリハビリの日々を過ごすことになった。

 前年に同期入団の水野雄仁が同じ右肩手術から復活して1軍登板。前例があるだけに「不安はありましたけど、誰もしたことがない手術ではなかったですし、肩が痛くなくなるんだったらいいという気持ちでした」と前向きに捉えていたと振り返る。

1988年に戦線復帰…27登板&11先発で4勝3敗1セーブ、防御率2.59

 ただ球団の処遇には戸惑いも覚えた。1軍での実戦登板が見込めない4年目の1987年は、練習生扱いとなったのである。「出場選手登録を外れて、任意引退選手でした。任意引退で名前が出たので『香田君、やめたの?』という連絡が来たこともありましたね。選手証がなくなり、身分証明書が必要になりました」。現在でいう、育成選手の状況だったのである。

 手術後は痛みも消え、リハビリのメニューも順調に消化。5年目の1988年は戦列に復帰した。6月5日の大洋戦(東京ドーム)でプロ初セーブ。プロ初先発となった同14日のヤクルト戦(神宮)ではプロ初完封を挙げるなど、この年は先発11試合を含む27試合に登板し、4勝3敗1セーブ、防御率2.59の好成績を残した。

 入団時とは投手陣の顔触れも変わり始め、斎藤雅樹や槙原寛己、桑田真澄、宮本和知、水野ら近い年代の投手が台頭していた時期。「同年代の選手が活躍する中で、負けないように何とか一緒に活躍できたらなあという思いでやらせてもらっていたのが良かった。いいライバル、目標になるような人がたくさんいましたね」。手術、リハビリを乗り越え、切磋琢磨しながら1軍に欠かせぬ戦力となっていった。(尾辻剛 / Go Otsuji)