◆スポーツ報知・記者コラム「両国発」 年明けに出社すると周辺はにぎやかだった。隣は両国国技館。大相撲初場所の最中、鹿児島…

◆スポーツ報知・記者コラム「両国発」

 年明けに出社すると周辺はにぎやかだった。隣は両国国技館。大相撲初場所の最中、鹿児島で高校の教員をしていた禧久昭広(きく・あきひろ)さんががんのため57歳で亡くなった。アマ横綱2度の故人を取材したのは30年前か。訃報(ふほう)を知って記憶の糸をたぐった。

 禧久さんは167センチ、98キロと小柄ながら名門の日大で主将を務めた。卒業後、母校の鹿児島商に赴任すると同僚の長尾秀平が90年夏場所、舞の海のしこ名で初土俵を踏んだ。故・田中英寿監督は「舞の海より禧久の方が強かった」と評していた。体格差がモノをいう相撲。171センチの友人のプロ入りを「半信半疑でした」と思うのも当然だった。

 舞の海は多彩な技で人気力士に。その活躍に刺激された大学で3年上の成松伸哉も教職を辞して92年春場所、智ノ花のしこ名でデビュー。175センチでもしぶとい相撲で人気者になった。相手の懐に潜り込んでの右四つからの攻めには自信があった。2人が通用するならオレも…。「2、3年は迷っていました」。プロ入りは断念したが世は史上空前の相撲ブーム。入門していれば若貴兄弟と好勝負を繰り広げていたはずだ。

 禧久さんは指導の傍ら93年、95年のアマ横綱に輝いた。95年の全日本選手権後、アマにこだわった理由を知りたくて赴任先の奄美大島へ飛ぶと、さっぱりとした表情で「プロ入りする勇気がなかったんです。教員になって生徒を指導するのが夢でしたから」。その願い通り里山、大奄美の元関取を育てた。当時の紙面には生徒に囲まれた笑顔の写真。「キクちゃんと呼ばれているんです」。アマ相撲一筋、教職一筋に悔いなし。きっとそう思っている。(野球担当・秋本 正己)

 ◆秋本 正己(あきもと・まさみ)89年入社。若貴時代の相撲、野球、企画面を担当。