<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 ◇ ◇ …
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
◇ ◇ ◇
キャンプインから3日目のこの日は、初代阪神日本一監督・吉田義男の一周忌にあたる命日だった。昨年2月3日に他界してから、早いもので1年の歳月が過ぎた。遺影に向かって手を合わせる。
長女・八田智子は「まだ留守をしてそうで、フッと家に帰ってきそうです」といえば、次女・中村範子は「阪神が好きでたまらなかったので、ずっと見守っていると思います」ともらした。
2000年(平12)、日刊スポーツ客員評論家に就いた吉田とは、この時期になるとキャンプ取材の旅に出るのが恒例だった。しかしなぜか阪神以外の球団に出向くことはなかった。
キャンプ地が高知県安芸市だった当時の宿泊先は1985年、監督で球団初の日本一を遂げた際のチーム宿舎(香南市)に決まっていた。さまざまな苦楽が去来した空間だったのだろう。
監督就任直後、それまでハワイ・オアフ島で続いた海外キャンプを、高知・安芸に変更したのは、吉田だった。「ハワイは優勝して遊びにいくとこですわ」。それが国内に戻した理由だった。
ホテルから国道に出るまでの坂道には、金柑の木があった。早朝の日課だった散歩では、たわわに実った黄金色の果実を口に含んだ。その“儀式”は毎年続いた。
「今年の金柑はええ味してるわ。阪神は必ずいけまっせ」
勝負師の吉田は、金柑の味で古巣チームの仕上がりを読んだ。そして、毎年本紙のキャンプ企画にあったのは、吉田による歴代監督への単独インタビューだった。
星野仙一、岡田彰布、真弓明信、和田豊、金本知憲、矢野燿弘らとグラウンドで向き合った。年の差、キャリアの違いはあっても、タテジマのユニホームをまとったものでしか分からない重圧がにじんだように思う。
キャンプの人気企画で取材対象者になった1人に野球が国民的スポーツになっていく同時代にプレーした野村克也がいる。吉田が監督を辞した後、ヤクルトで指揮とっていた名将が阪神監督の座に就いたのだから衝撃だった。
ひらりひらりとした華麗な守備で“牛若丸”と名付けられた吉田。どんなに偉業を遂げても、王、長嶋のONほど騒がれなかった“月見草”の野村。同じ京都人だった2人のクロストークは楽しかった。
取材メモをたどると、センセーショナルで大フィーバーが起き、近寄りがたい存在だった野村による理詰めのID野球に「チーム全体的に戸惑いを感じますな」と堂々と言い切ることができたのは、OBでも吉田が唯一だった。
そこで2つ年下の野村は「フロント批判になるかもしれないが、10年間のドラフトを見直してくれと言ってるんですよ。エースと4番は日本人でと思ってますが、現状ではできない。一時的な対策ばかり講じてきたからです」と言い返す。
これには吉田も「いい選手をとってきてるが、育て方(現場)がダメとばかり言われてきた。それからすると(野村発言は)大きな進歩です」と、お互いが阪神のぬるま湯体質に相づちを打つのだった。
結果的に野村阪神は3年連続最下位に低迷。吉田は「連係な中継が絡むプレーに戸惑いを感じるが、時間はかかるけど、同じタテジマのユニホームを着たんやから仲間意識をもってやっていきましょう」と激励するのだった。
ずっと後になって、車椅子姿で甲子園を訪れた野村に近寄った吉田は「なぁ野村、もう阪神の悪いことは言うな」と両肩に手を置いてなだめた。すると野村が「あぁ、先輩…」と見上げたのが、生前の2人が目を合わせた最後のシーンだ。
今メモを読み返すと、記事に書けないコメントばかりだった。阪神での監督業がつらいのは、創設90年がたった伝統球団なのに、日本一が吉田と岡田の2度しかないことに証明されている。
2人の名将。阪神監督の独特さ、天国と地獄を味わったものにしかわからない気心で通じたキャンプ対談は、記者冥利に尽きたし、実に興味深い時間が流れたのは間違いなかった。(敬称略)