錦織圭という奇跡【第12回】奈良くるみの視点(4)「『SLAM DUNK』を貸してくれたのは、圭くんだった」コートで豹変…

錦織圭という奇跡【第12回】
奈良くるみの視点(4)

「『SLAM DUNK』を貸してくれたのは、圭くんだった」
コートで豹変。厳しい要求に「そんなの無理だよ!」
具体的な助言に驚愕「指導のあとフォームがそっくりに」

「なんか、引き止めたいな......」

 遠征先のカナダから、奈良くるみさんが電話で引退の決意を告げた時、錦織圭は寂しそうに、そうポツリと言ったという。

 2022年8月。錦織自身は股関節のケガで長期戦線離脱し、復帰に向けてリハビリと練習の日々を送っていた最中だった。

「全米オープン前に引退の報告をしておこうと思ったので、『時間ある?』とLINEで確認してから、圭くんに電話した覚えがあります」

 その時のことを、奈良さんが回想する。

   ※   ※   ※   ※   ※


奈良くるみさんが引退して感じる錦織圭のすごさ

 photo by Sano Miki

「『9月の東レ・パンパシフィック・オープンで、引退することにした』と伝えて。『寂しい』って何度も言われたのを、すごく覚えています。『え~、辞めるのかぁ......』みたいな感じで、けっこうびっくりしていた雰囲気でした。

 私としては、『2年前に引退しようと思ったけれど、そこから気持ちを持ち直せた』ということを伝えました。2022年5月に韓国開催の大会で優勝して、その時に『やりきったと感じた』という話をして。そうしたら、『最近、みんな辞めていくし、なんか寂しいけどな』って言っていて......。

 その時の圭くんとの会話ですごく覚えているのは、『俺は、もったいないと思う』って言われたことなんです。もしかしたらそれは、私に対して言いつつも、圭くん自身のことも言っていたのかなと思ったので。

『これだけの才能があるのに、辞めるのはもったいない』っていう言葉を、私にけっこう使っていました。『ああ、なんかそういうふうに考えるんだなぁ』って思ったのを、よく覚えています。私には、もったいないなんて考え方は、まったくなかったので」

 奈良さんの引退の意思を知り、錦織が口にした「もったいない」の言葉──。

 もちろんそれは、去り行く盟友に対して抱いた、純粋な寂寥感だったろう。同時におそらくは、錦織自身の引退観を......つまりは「現役を続ける意義」を、克明に浮かび上がらせる言葉でもあったはずだ。

【錦織が今も現役を続けている理由】

 その証左として、錦織は奈良さんに対して、「俺たち」という言い回しをしたという。

「そうですね。『俺たちって、この才能があるじゃない?』って圭くんが言っていた覚えがあります。その『俺たち』に私は含まれていないのになぁと思ったんですが......。でも、私に対しても圭くんは、『もったいない』って思ってくれたんですかね。私はそうは思えなかったんですが、『天才は、そういうふうに考えるんだな』と思ったりしました」

 奈良さん自身は、韓国の大会で優勝した時に「がんばれているから、辞めてもいいのかな」との思いが、天啓的に「ふってきた」と言った。

 自分を認め、「テニスが大好き」なまま、30歳で14年間の現役生活に幕を引いた奈良さん。その、かつての天才少女の目に、36歳を迎えて今なお現役選手としてコートに向かう錦織の姿は、どのように映っているだろうか?

 そして、これだけのケガや困難がありながら、なぜ彼はまだモチベーションを保てているのだろうか?

 その問いに奈良さんは、「うーん、なんだろうなぁ」と小さくつぶやき、これまでの錦織の言葉や行動に自分を重ねるようにしながら、真摯に言葉を紡いでいった。

「自分がもし、今の圭くんの立場だったら、辞めたいと思ってしまうんじゃないかなって思うんです。でも、たぶん圭くんは、まだできると信じているんだと思います。

 圭くんはもう一度、トップに行けると思ってやっているのかな......、思っているんですよね、きっと。まだ、自分には可能性があると思っている。逆にそう信じられないと、圭くんは続けられないタイプじゃないかなと思うんです。

 私はどちらかというと、たとえ結果が出なくても、プロセスが充実していれば、それだけでがんばれるんですね。でも圭くんは、結果が出せると思っているからこそ、やるタイプなんじゃないかなと。

 もちろん、圭くんに質問したことはないので私の予想なんですが。自分の可能性を信じているからこそ、現役でやっているんだろうなと思います」

【錦織と伊達公子との共通点】

 もう一度、トップに行けると信じているからこそ、がんばれるタイプ──。

 この奈良さんの錦織評には、「負けず嫌いではない」ことに小さなコンプレックスを抱いていた彼女の、錦織に対する敬意や羨望がにじむようでもあった。

 3年前に引退した奈良さんは、日本代表チームのコーチを経て、2025年に日本テニス協会女子ナショナルチームのヘッドコーチに就任した。指導者となった奈良さんが、錦織から学び、後進たちに最も伝えたいこととは、何だろうか?

「それはやっぱり、プロフェッショナルとしての姿勢です」と、奈良さんが答える。

「私にとって、自分に厳しく取り組んでいる選手といって真っ先に思い浮かぶのが、伊達(公子)さんと圭くんのふたりなんです。現役の時に間近で見て、『あっ、これがプロなんだな』と肌で感じてきました。

 テクニックやセンスという意味では、持って生まれたものもあるとは思うんです。ただ、その持って生まれたものを最大限に生かそうとする努力だったり、意識というのが凡人とは違うレベルだと感じていました。

 勝つためには何が必要か、すごく頭で考えている。さっき言った、圭くんの『もったいない』の言葉も、自分の持っている能力を最大限に生かそうとする、意志の表れだったのかなって思います。

 トップ選手というのはこういう考え方をして、こういう取り組みをするんだなっていうのを近くで見させていただけたのは、自分にとってありがたいことでした。逆に『自分は甘かったんだな。だから私は、あそこまでだったのかな』と、客観的に思うこともあるんですけど......。

 なので、これから世界に行く選手、本当にトップを目指す選手たちに対しては、これが私のなかでも基準になる。そのことを伝えられるのが、指導者としての私にとって大きいのかなと思います。

 勝負師という点でも、圭くんと伊達さんはすごい。勝つために何をしなくてはいけないかを、周りから言われるのではなく、自分中心で考えられるところも、ふたりの共通点かなと思います。オフコートでもオンコートでも、そのあたりの妥協は、ふたりともないんですよね。

 圭くんは、オフコートでは、めっちゃくちゃ優しい人。ただ、テニスや勝負ごとに関しては、けっこうドライなところもあるかなと思います。勝つために何が必要か、勝利や上達につながるかどうかの判断の軸は、ブレていないと感じます」

【近寄りにくい感じがまったくない】

 今から22年前に米国のIMGアカデミーで知り合い、トップジュニアからトッププロへの道をともに歩んできたふたり。今は、テニスに携わる立場こそ異なるが、奈良さんにとって常に変わらないものがある。

 それは、オフコートでの「優しいお兄ちゃん」的な距離感。そして、オンコートで圧倒的な光を放つ錦織圭に向けてきた、憧憬の視線だ。

 錦織圭とは、奈良さんにとって、どのような存在だったか──?

 最後にあらためて尋ねた問いに、奈良さんは柔らかな笑みを広げて答えた。

「オフコートでの圭くんは、いい意味で、近寄りにくい感じがまったくないんです。でも、テニスをやっている時は、本当にかっこいいって思います。試合だけでなく練習の時でも、かっこいいなって思う憧れですね。立っている姿勢や雰囲気、振る舞いも含めて、コートに立つとオーラがある。

 私の立場から言うのも少し変かもしれませんが、スターだなって思います。そこは本当に、子どもの頃から今も、まったく変わっていないですね」

(つづく)

「あああああああああああああ」

【profile】
奈良くるみ(なら・くるみ)
1991年12月30日生まれ、兵庫県川西市出身。ジュニア時代から「天才テニス少女」として名を馳せ、中学・高校時代も数々の国内タイトルを制す。2009年にプロ転向し、2014年のリオ・オープンでツアー初優勝。2015年にはセリーナ・ウィリアムズ、2016年にはビーナス・ウィリアムズから金星を挙げる。2022年9月の東レ・パンパシフィック・オープンを最後に現役引退。ランキング最高位シングルス32位。身長155cm。